太田述正コラム#9087(2017.5.11)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その30)>(2017.8.25公開)
「横浜に港崎遊郭が開設されたのは1859(安政6)年旧11月だった。<(注97)>
こう書いて「みよざき」遊郭と読む。
(注97)「日米修好通商条約<等の締結にあたり、>・・・幕府は、横浜の地を居留地として開放する意<向を伝えた>が、当時の横浜は僻地であり大変不便な地の利の為に<米国を初めとする>各国が難色を見せた。・・・
何としても<、彼らを、攘夷派の>武士から隔離したい幕府は・・・<彼らの>要望の全てを満たす事が必要であった。・・・
米国側<からの>・・・幾つかの要望・・・の一つに、異人慰安の娼館設置要望があった。・・・<そこで、>幕府は横浜の・・・造成地の沼地を埋め立て、遊郭設置の計画を立てた。しかし、沼地の工事が難航し開港期限に間に合わず。条件を満たせぬ事を危惧した幕府は開港期日までに、遊郭を急遽仮設設置する事にした。これが、横浜初の遊郭である“駒形町遊郭”となる。駒形町遊郭が営業していた時期は、安政6年5月10日(1859年6月10日)より安政6年10月(1859年11月)までの5ヶ月程と成る。当初計画された太田屋新田の埋め立てが安政6年10月(1859年11月)に完成し、駒形町遊郭が太田屋新田に移転され江戸の吉原を手本とした本格的な遊郭として、港崎町遊郭が誕生する。」
http://blog.livedoor.jp/tomtoms2004/archives/50941831.html
⇒下川も上掲の筆者も典拠を付していませんが、下川には、駒形町遊郭の話に一言触れて欲しかったところです。(後出参照)(太田)
場所は現在の横浜球場のある一帯で、今は市街地の真ん中に位置しているが、できた当初は出島のような埋め立て地だった。
敷地は1万5000坪(約5万平方メートル)。
そこに外国人向け(日本人も可)の遊女屋が15軒あり、300人の遊女がいたという(ほかに日本人だけを相手にする安い遊女屋も44軒あった)。
港崎遊郭に造られた・・・妓楼はすべて瀟洒な洋館造りで、文明開化のシンボルとして日本人の憧れのマトになった。・・・
その後、<この遊郭>は・・・たびたび移転したが、・・・外国船の入港が増えるにつれていっそう評判が高くなり、1908(明治41)年、・・・貸座敷は67軒、遊女数は1463人、これが約10年後には貸座敷80軒、遊女数は約1800人へと増大した。
ところで東京が首都と定められたのは1868(明治元)年の旧7月である。
流布されている定説によると、その直前の旧3月に、吉原遊郭の・・・2人の妓楼経営者が遊郭の新設を新政府に願い出て認可され、東京が首都と定められてから1か月後の旧8月に新島原遊郭がオープンしたという。
場所は現在の東京・中央区新富町にあたり、沼地や埋め立て地を整地したところであった。・・・
<これは>外国人<目当てだ>・・・った・・・
しかし新政府の役人が勘違いしていることが1つあった。
横浜で最初に開設された港崎遊郭は出島の埋め立て地に造られ、入り口には守衛や妓楼の若い衆がたむろしていたため、女性が出入りすることは事実上不可能だった。
これは・・・移転先でも同様だった。
その理由は、遊郭が開設されたのはアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスの強い要請によるものであるが、そのことは条約にも記載せず、外国人女性には内密にするように求められていたからである。
⇒「当初、ハリスがスケベな為に遊郭を準備させた様に思えたがハリスは非常に固い人物で、初の在日米国領事館を下田に開設した当初、日本側に秘書を依頼したが下田奉行の勘違いから遊女を差し出している。これが有名な唐人お吉で、ハリスは彼女が娼婦である事が分かった即日に解雇している。
又、以下の様な話も残っている。
慶応2年2月1日(1857年2月24日)下田奉行岡田備後守役宅にて、ハリスは岡田備後守に対して「日本人は、信じられぬ程に淫奔である。会食後は必ず女の話に・・・」と大変迷惑していると述べられた様だ。 一方、ハリスに同行していたヒュースケンは下田の夜も満喫していた様だ。当時の日本は、混浴が普通でありヒュースケンは厳格なハリスに白い目で見られながらも毎晩通ったようだ。しかも入浴せずに長時間居座って見学していたと記録がある。」(上掲)
という次第であり、ここにも典拠が付されていませんが、「ヒュースケン<は、>・・・下田にある・・・遊郭によく通っていた<ところ、>・・・妾(めかけ)を求めたのを知った幕府はハリスにも妾をあてがうが、ハリスは妾を求めておらず、3日で帰してしまう」
http://machiori.jp/modules/MO_Program_Presenter/index.php?programID=user_33&spotNum=5&pageNum=2
ことも併せ勘案すれば、状況証拠的には、開港場近くへの遊郭の設置を幕府に密かに求めたのは、ハリスではなくヒュースケンでしょう。
私は、個人的には、ハリスよりもヒュースケンの方が人間的(人間主義的?)なので好きですが、下川のような形で、結果的にハリスを貶めてしまうような書き方をしてはいけませんね。(太田)
当時、日本に来る外国人女性(単独にしろ、夫と同行するにしろ)は確固たるキリスト教の信者がほとんどだったから、男性が遊郭へ通うことは自分の存在はもちろん、信仰に対する最大の侮辱だったのだ。
⇒ここでの下川の叙述は、必ずしも、欧米を先進国視している感はないものの、この文脈でキリスト教を持ち出す意味が不明である上、何よりも、事実認識において間違っています。
というのも、当時のヴィクトリア期のイギリスでは、貧富の差が甚だしかったこともあり、下級階層において売春婦予備軍が大勢いて、売春婦や売春宿が多数存在し、その中には、中流階層を顧客とするものはもちろんのこと、上流階層を顧客とするものさえ珍しくなかったからです。
もとより、当時の日本と違って、売春や売春宿は違法でしたが、1885年に至って、ようやく売春宿の取り締まりがまともに行われるようになった、という状況でした。
http://historicalhoney.com/the-real-story-of-the-victorian-prostitute/
このような事実を踏まえれば、例えば、イギリス人女性達は、日本においても、本国においてと同様の形で、売春宿を訪問する夫達に対応しただろう、ということ以外に叙述のしようはないはずだ、ということです。(太田)
ところが新政府の役人はその間のいきさつを知らなかったらしいのである。
築地の外国人居留地にはアメリカ公使館や外交官夫婦の住居、ミッションスクールなどが開設された。
とくにミッションスクールは立教、明治学院、雙葉学園、青山学院、女子学院など、後の日本の女子教育を担う名門校がずらりと名前を連ねていたから、隣接する遊郭の存在は西洋文明に対する侮辱と受け取られて、反日運動さえ起きかねない状況だった。・・・
⇒やはり典拠が付されておらず、かつ、真偽を別途検証できなかったので、単なるゾーニングの問題のように思われるけれど、ここは、具体的なコメントは控えることにしましょう。(太田)
(続く)
下川耿史『エロティック日本史』を読む(その30)
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