太田述正コラム#9089(2017.5.12)
<二つのドイツ(その3)>(2017.8.26公開)
「素早く8世紀に飛ぶが、そこでは、文明の砦を掌握したシャルルマーニュが、フランク族を率いて、コンスタンティノープル<(ママ。ローマの誤り(太田))>の法王(Pope)と提携して、神聖ローマ帝国を創造し、古典時代の文化的遺産を中世に伝達した。」(注5)(B)
(注5)カール大帝(742~814年)。「800年には西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位:800年 – 814年)を号したが、東ローマ帝国は<その時点では>カールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%B8%9D
「この帝国は公的には西の帝国(フランス語: Empire d’Occident)と呼ばれているが歴史学ではフランク帝国ないしはカロリング帝国と呼ばれている。・・・最後のフランク・ローマ皇帝は924年に死去した<11代目の>ベレンガーリオ1世である。」彼が924年4月7日も殺害され、「皇帝号は<一旦>消滅し」たが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D
「オットー1世<が>、962年2月2日にローマにおいて教皇から皇帝の冠を授けられた。「神聖ローマ帝国」の国号が使わ)れ出したのは200年後の13世紀であるが、<一般に、>この時をもって神聖ローマ帝国の誕生としている。また<この本の著者ないし書評子のように、>800年のカール大帝の戴冠をもって神聖ローマ帝国成立とする見方もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC1%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
「<なお、>オットー1世自身は新しい皇帝号を創始しようとする意図はなく、もっぱらカール大帝の後継者であると見做していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
「<また、>東フランク王国はザクセン人のハインリヒ1世が国王になった際、フランク人が統治する国で無くなったために単に「王国」、その王も単に「王」と呼ばれるようになった。<但し、>対外的には「フランク王」、まれに「東フランク王」も使われた。これはオットー1世がイタリア王を兼ねてローマ皇帝となっても変わらなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%8E%8B
「<ちなみに、>ドイツ王国(Deutsches Reich)・・・の成立過程における重要な事柄として、843年のヴェルダン条約による東フランク王国の成立、911年のルートヴィヒ4世の死によるカロリング朝の断絶とコンラート1世の国王選出、919年の非フランク人であるザクセン人のハインリヒ1世の国王選出、そして936年のオットー1世の国王即位により王国分割の慣例が完全に廃止され、アーヘンの即位式に全ドイツ部族の代表者が参加したことが挙げられる。
シュルツェはドイツ王国と東フランク王国を区別する特徴としておよそ次の項目を挙げており、これをもとにドイツ王国への移行はおおよそザクセン朝の王たちによってなされ、10世紀にはドイツ王国は成立していたと結論づけている。
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カロリング家の断絶による王国分割の慣行の廃止
フランク人以外の部族の国王選出への参加とそれらの民族を含めた王国の形成
オットー1世のアーヘンでの戴冠などのカロリング朝王国への理念回帰
部族大公領の形成
国王による教会支配の強化
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また、9世紀末から王国の文化的活動の中心地となったザンクト・ガレン修道院やマインツにおいては、フランク語由来の言語「lingua theodisca」に代わり、それと原ゲルマン語の融合した言語「lingua teutonica」が用いられるようになり、この言語面での変化も東フランク王国からドイツ王国への移行段階の一つととらえられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%8E%8B%E5%9B%BD
⇒「注5」から、ブリトン人とアングロサクソン人が並存・混淆しているという意味でのイギリス人達が現在のイギリスの領域に居住しているという意味でのイギリスが6世紀に成立した・・イギリス王室の直系の祖であるウェセックス王家の成立、と言い換えることもできる・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
とすれば、ドイツの成立・・それは、フランスの成立でもある・・は、それよりも400年ほど遅れたことになる、と受け止めることができそうですね。
基本的に島国であって最初から境界線がほぼ画されていたイギリスの、自然国境があってなきが如き大陸国である独仏と比較しての「生来的早熟性」といったところでしょうか。(太田)
著者は、ドイツはローマの破壊者というよりは、承継者である、と主張する。
神聖ローマ帝国(別名、第一帝国)は、神聖でもローマ的でも帝国でもなかった<(注6)>かもしれないが、それでもなお、暗黒時代を通じてのキリスト教文明の稜堡、かつ、今日のEUの遠い先祖、ではあった。
(注6)ヴォルテールの1756年の言。
https://ja.wikiquote.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD
800年におけるシャルルマーニュの帝国の地図を見てみよ。
その諸境界線は、ほぼ、EECの創建6か国の諸境界線と一致している。」(C)
⇒これも、戦後、東独及び東欧がたまたまソ連圏に組み込まれていたこと、イベリア半島が、これまた、たまたま独裁体制下にあった、ということに由来する偶然の一致に過ぎない、とも言えそうです。
とりわけ、東独及び東欧中、旧ドイツ帝国及び旧オーストリア・ハンガリー帝国領域内にあった諸国・諸地域に関しては、EEC創建諸国地域中のドイツ語圏地域とは文明的・文化的に殆ど差異がなかった(典拠省略)のですからね。(太田)
(続く)
二つのドイツ(その3)
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