太田述正コラム#9097(2017.5.16)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その31)>(2017.8.30公開)
開業3年目の1871(明治4)年7月17日、同遊郭は太政官命令により閉鎖を命じられた。」(242~245、248)
 「ペリー提督<の>・・・『ペリー艦隊日本遠征記』・・・の中では日本人の生活習慣<である、>・・・混浴(公衆の面前での裸体も含む)と春画類・・・<への>悪口雑言が<書かれている。>・・・
 その対策は<明治>新政府に委ねられた。
 1872(明治5)年11月に制定された・・・軽犯罪法<である、>・・・違式(言偏に圭)>違(かいい)条例<(注98)>は、新政府が初めて示した風俗取り締まりの見解であ<って>・・・罪の重い違式・・・が合計23条、・・・罪の程度が軽い●<(同左)>違・・・が全部で26条定められている。・・・
 (注98)「1872年(明治5)11月8日の東京府達をもって,同月13日から施行された東京違式●違条例が最初。・・・翌73年7月19日の太政官布告により各地方違式●違条例が制定され,各地方にも公布・施行されることになった。」
https://kotobank.jp/word/%E9%81%95%E5%BC%8F%E8%A9%BF%E9%81%95%E6%9D%A1%E4%BE%8B-1145633
 混浴と春画についてはもちろん違式に属し、・・・取り締まりの対象とされた。・・・
 実はその頃、外国人の間では・・・混浴好きという人が急増していたのである。
 たとえばフランス人の弁護士で、1872(明治5)年にお雇い外国人として来日したジョルジュ・ブスケ<(注99)がそうだ。>・・・
 (注99)Georges Hilaire Bousquet。1846~1937年。「パリ大学法学部卒業。・・・1872年(明治5年)に訪日(日本で初めての御雇い外国人)。当初民法草案の策定にかかわり、ギュスターヴ・エミール・ボアソナード訪日後は、司法省明法寮(後、司法省法学校)で法学を講義した。1876年(明治9年)に帰国し、日本での見聞をまとめた『今日の日本』(Le Japon de nos jours・・・ et les Echelles de l’Extreme Orient: Ouvrage Contenant Trois Cartes・・・)を出版。・・・
 「日本の職人・・・について・・・「・・・仕事を休むために常に口実が用意されている。暑さ・寒さ・雨、それから特に祭りである。」・・・また、「日本人の生活はシンプルだから貧しい者はいっぱいいるが、そこには悲惨というものはない」と・・・記している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%96%E3%82%B9%E3%82%B1
 日本における考古学の創始者として有名なエドワード・モース<(コラム#1503、1600、2267.6795(重要)、8557)>も、<そうだ。>・・・
 それは軽蔑すべきかどうかという問題ではなく、文化の違いに過ぎないというわけである。
 この点は女性の場合も同様である。
 エリザ・R・シドモア<(注100)>はアメリカの女性地理学者で、ワシントンのポトマック河畔に桜を植えようという運動の発案者として知られている。・・・
 (注100)Eliza Ruhamah Scidmore。1856~1928年。「<米国>の著作家・写真家・地理学者。<米>ナショナルジオグラフィック協会初の女性理事となった。・・・オーバリン大学に学ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%A2%E3%82%A2
 彼女の墓は、横浜の外国人墓地の母親と兄の墓の傍らにある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Eliza_Ruhamah_Scidmore
 「・・・初めて・・・<田舎の>公衆浴場<を>・・・目にする外国人は、この驚くべき素朴さにびっくり仰天。
 しかし長く滞在しているうちに、大衆は子供のように天真爛漫で、妥当な新しい道徳観念をもっていることに気づきます」<、と。>・・・
 『ペリー艦隊日本遠征記』に採られた意見の持ち主が国家の意向に沿うタイプだったのに対して、混浴の共感派は自分の実感に従った人々だったことは確かである。」(249~251、255~257)
⇒ブスケとシドモアはご覧の通りの学究肌であり、モースも、「1871年、大学卒の学歴がないにもかかわらず、31歳でボウディン大学教授に就任し、ハー<ヴァ>ード大学の講師も兼ねながら、1874年までボウディン大学で過ごした。1872年から<米>科学振興協会の幹事になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B9
と同様ですが、そんな彼らが、皆、先入観がないまま日本にやってきて、日本に、(ブスケやモースのように)長期滞在したり、(シドモアのように)訪問を頻繁に繰り返した(それぞれのウィキペディア)、おかげで、3人とも日本社会の本質を素直に捉えることができたのではないでしょうか。
 それに対して、ペリーは、実務家であって、先入観・・例えば、「<支那>人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%BC
を持って日本にやってきて、最初の訪問時には久里浜に短時間上陸したのみ、そして、二度目の訪問時には1か月神奈川に滞在したのみ、
https://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_C._Perry
であったことから、日本社会について無知なままで終わった、と思われるのです。(太田)
(続く)