太田述正コラム#9105(2017.5.20)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その33)>(2017.9.3公開)
「明治の・・・<新>政府に対する庶民の人気は出だしから今イチだった。・・・
その事情の一つとして、新しく支配者層に昇りつめた人々が、国民を「愚民」と決めつけていたことが挙げられる。
たとえば1871(明治4)年11月、東京府が<何度目かの>混浴禁止令を発布した。・・・
このお触れの冒頭には次のような文句が記されていた。
「府下賤民共、・・・」・・・
ちなみにこの時の東京府知事は由利公正であった。・・・
<在野のエリートたる>福沢諭吉も『学問のす<す>め』の中で、「努力を怠る人間が愚民として、政府から過酷な扱いを受けるのは自業自得だ」という意味のことを述べている。・・・
こういう政府の姿勢は、必然的に県民の間の反発を招くことになった。
⇒私の言う、第二次弥生モードの時代が、拡大弥生時代や第一次弥生モードの時代に比べて、極めて短期間で終わった原因は、(時代の進行が速くなったということもあるでしょうが、)下級武士出身者が大部分を占めていたところの、明治期の、政府や在野のエリート達の、こういった姿勢にもありそうですね。(太田)
この対立が先鋭化したのが盆踊り禁止令であった。
・・・日本で初めて制定されたのは前橋藩(現群馬県)で、1870(明治3)年7月のことである。・・・
これを引き金として・・・徐々に全国へ拡大していった。
と同時に反発も激化した。・・・
警察との対立が警官殺害にまで発展した<ケースさえあった。>・・・
ところで・・・「五箇条の御誓文」・・・の3条に、「官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」・・・とある。
この条文を「飽きがこないようにセックスしてよろしい」と、・・・曲解したふりをして、・・・大阪・南河内郡磯城町(現太子町)ではフリーセックスが流行したという。・・・
この地は聖徳太子の御廟(叡福寺)のあるところで、毎年4月22日(旧暦)に会式が行われるが、この会式は「一夜ぼぼ」と呼ばれ、誰と寝てもよい日とされていた。・・・
<それが、>それまでは「一夜ぼぼ」の日以外には、亭主のある女性のもとへ夜這いに行くことはなかったが、そういう制限もなくなったし、<いつ、どこで>でも、好きな女と寝ることが流行っ<た>・・・というのである。」(266~273)
⇒下川が、男性の側からの叙述に徹していることに、私は違和感を覚えます。(太田)
「長崎では1857(安政4)年、・・・幕府の医学伝習所<(注104)>が開設され、上野彦馬<(注105)>、・・・らが学んでいた。
(注104)「1857年(安政4年)、幕府から医学教授を依頼された長崎海軍伝習所教官のオランダ軍医ポンペは、同年11月、長崎奉行所西役所に医学伝習所を設立、幕府医官の松本良順ら11名に医学講義を行った」
1857年(安政4年)、幕府から医学教授を依頼された長崎海軍伝習所教官のオランダ軍医ポンペは、同年11月、長崎奉行所西役所に医学伝習所を設立、幕府医官の松本良順ら・・・に医学講義を行った
(注105)1838~1904年。「広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、咸宜園を離れた後の安政5年(1858年)には・・・医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。このとき、蘭書から湿板写真術を知り、大いに関心を持つ。同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年(1862年)には堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆する。
同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。ちなみにこれは日本における最初期の写真館であ<る>(ほぼ同時代に鵜飼玉川や下岡蓮杖が開業)・・・
維新後の明治7年(1874年)には金星の太陽面通過の観測写真を撮影(日本初の天体写真)、明治10年(1877年)には西南戦争の戦跡を撮影(日本初の戦跡写真)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%BD%A6%E9%A6%AC
「上野彦馬は、上野俊之丞の第四子として、1839年(天保9年)長崎の・・・に生まれた。上野家は、先祖代々肖像画を描く画家の家系でもあったが、父俊之丞は長崎奉行所の御用時計師であり、また塩硝や更紗などの開発でも有名であった。加えて俊之丞はシーボルトに学んだ蘭学者でもあ<った>・・・。・・・特筆すべきは・・・俊之丞が、日本で初めての写真機を購入し、これが島津藩に渡り、初めて写真撮影がなされていることである。因みにこれが写真の日(6月1日)が制定された所以となっているが、14歳の時にこの父を亡くした彦馬が、後に写真術の祖として歴史にその名を残すことになるのである。・・・
<ちなみに、>現在の東大薬学部の基礎を築<き、>・・・日本薬学の開祖として知られる長井長義は・・・慶応3年(1867年)に・・・上野彦馬の家に寄寓、写真技術を通じて化学修得に励<んでいる。>」
http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/cp2/chapter2-2.html
<彼は、日本人による、最初の>エロ写真を撮影していた・・・。・・・
<そして、>明治10年代に次経・浅草に40軒近い写真館が林立すると、客の注文に応じてエロ写真を撮影することが当たり前になった。」(275~277)
⇒エロなくして、あらゆる芸術も科学もなし、とさえ言えそうですね。(太田)
(続く)
下川耿史『エロティック日本史』を読む(その33)
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