太田述正コラム#9107(2017.5.21)
<二つのドイツ(その6)>(2017.9.4公開)
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[ドイツ、就中、北部・東部ドイツで宗教改革が始まった理由]
一、背景
私は、アングロサクソン、日本、支那、インド、イスラム世界、に比べて重要度が低いことから、朝鮮半島史ほどではないが、欧州史についても、手抜気味であったので、表記について、以下、記すことは、俄か勉強に基づく暫定的仮説に過ぎない、と受け止めていただきたい。
地理的意味での欧州で考えれば、ドイツならぬ、イギリスで、それが始まったとも言える(コラム#省略)わけだが、ここでは振り返らない。
「313年<の>コンスタンティヌス1世とリキニウス帝によるミラノ勅令によって、<キリスト教が>他の全ての宗教と共に<ローマ帝国で>公認され<、>その後・・・、テオドシウス帝は380年にキリスト教をローマ帝国の国教と宣言し<、>さらに392年には帝国内でのキリスト教以外の宗教の信仰が禁止された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
わけだが、ゲルマン民族のキリスト教化史を、神聖ローマ帝国がらみに絞って簡潔に記せば、次の通りだ。
フランク人がローマ帝国内のガリアに移入し始めたのは3世紀だったが、そのメロヴィンブ朝のクローヴィス(Clovis)が498年にキリスト教に改宗したのを契機に、フランク人のキリスト教化が進展する。
但し、クローヴィスのこの改宗は、彼がキリストに祈った戦闘に勝利したから、という功利的なものだった。
このフランクの選良達の影響を受けて、現在の「ドイツ南西部のライン川上流地域」にいたアラマンニ人(Alemanni)
http://ejje.weblio.jp/content/Alamanni
が、7世紀中に次第にキリスト教化して行った。
次いで、シャルルマーニュによって、現在のドイツ北部にいたザクセン人(Saxons)
https://en.wikipedia.org/wiki/Saxons
が、772~787年にかけての戦争で、フランクに征服され、彼らにキリスト教が押し付けられた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Germanic_Christianity 全般
つまり、東フランク(≒ドイツ)は、西フランク(フランス)に比べて、キリスト教化が遅れた、というわけだが、ドイツの中でも、南部に比べて北部・・後に北部の連中が東部に進出する・・のキリスト教化は遅れたばかりでなく、それが強制によるものであった上、権力者であれば、誰でも、第三者たるカトリック教会、その頂点が法王、の、10分の1税(tithe)税の賦課
http://www.historylearningsite.co.uk/the-reformation/roman-catholic-church-in-1500/
等の介入は煩わしいところ、ドイツは、フランス等に比して、神聖ローマ帝国の形で、カトリック教会/法王の介入をより直接的に受け続けた・・そもそも、選帝には「聖」俗が関与した(注13)・・ことから、反・カトリック/法王感情が高く(注14)、このことから、宗教改革が欧州でドイツに最初に起こり、しかも、ドイツの中でも、北部・東部がその中心になった、と考えられる。
(注13)「聖」は、いずれも法王が、当時は献金の見返りに任命する
< http://www.historylearningsite.co.uk/the-reformation/roman-catholic-church-in-1500/ 前掲>
ところの、マインツ大司教(→レーゲンスブルク大司教)、トリーア大司教、ケルン大司教。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B8%E5%B8%9D%E4%BE%AF
(注14)中世初期における、叙任権闘争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%99%E4%BB%BB%E6%A8%A9%E9%97%98%E4%BA%89
を想起せよ。また、1508年にマクシミリアン1世が法王に戴冠されることなく皇帝を称し、その後の皇帝もこの例にならうこととなった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B8%E5%B8%9D%E4%BE%AF 上掲
(もとより、ポーランド等、ドイツ、ないし、神聖ローマ帝国、より東側のキリスト教化(カトリック化)は更に後であるわけだが、彼らは、カトリック/法王、との軋轢を、基本的、かつ、ドイツ/神聖ローマ帝国内諸領邦に比べて相対的、に免れていた(典拠省略)上、想像するに、この地域の人々の多くは、改宗の契機いかんにかかわらず、正教勢力や、後にはオスマントルコと対峙する関係上、信仰が内面化していた可能性もあろう。)
二、宗教改革
宗教改革は、以下のような経過を辿った。
フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)(1463~1525年)は、「1486年、父・・・の死に伴いザクセン選帝侯に就任<ていたが、>・・・1519年、・・・当時の神聖ローマ皇帝・・・マクシミリアン1世の死に伴う皇帝選挙で候補の一人に挙げられるもこれを辞退、・・・スペイン王カルロス1世として即位していたマクシミリアンの孫を推薦して、皇帝カール5世を誕生させた。・・・
1502年にはヴィッテンベルク大学を設立した。この大学で設立間もない時期から教鞭を執っていたのがマルティン・ルターで、1512年に神学教授に就任すると、フリードリヒの死後まで長くこの職を務め続けた。・・・通説では、このヴィッテンベルク大学内の聖堂の扉にルターは「95ヶ条の論題」を掲示したと言われる。・・・
宗教改革の動きが活発になり、ルター派に対する皇帝・諸侯の弾圧が強まると、フリードリヒ3世はヴィッテンベルクに多くの信者を受け入れた。・・・
<しかし、>彼<自身>は、死の間際に<、ようやく>ルター派へ改宗している。・・・
1521年にヴォルムス帝国議会でルターが自説の撤回を拒否し、<皇帝>カール5世からドイツ国内で法律の保護対象外(事実上の国外追放処分)に置かれると、皇帝の決定に反して「ルターを誘拐した」という名目で居城であるヴァルトブルク城に匿った。皇帝カール5世にとってフリードリヒ3世は自らの皇帝即位の立役者である上、当時のドイツはイタリア戦争最中の非常に政情不安定な状況にあったため、皇帝は彼に対して別段の処置を採らなかった。またローマ教皇にとってもフリードリヒはハプスブルク家に対抗するために蔑ろにできない大諸侯ということもあり、表立った圧力が加えられることはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96_(%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%E9%81%B8%E5%B8%9D%E4%BE%AF) 「こ<の城>でルターは新約聖書のドイツ語訳を完成させ、このルター聖書は後のドイツ語の発達に大きな影響を与えたとされるほど広く読まれることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E6%94%B9%E9%9D%A9
「1525年、フリードリヒ・・・は亡くなり、弟のヨハン・・・が後を継いだ。ヨハンは既に熱心なルター派の信徒で、教会に対する自らの権威を行使して、領内の教会にルター派の宗教信条を採用し、カトリックの宗教信条を守る聖職者を追放し、ルターの考案した典礼を行わせた。ヨハンは1531年、宗教改革に反対する神聖ローマ皇帝カール5世の圧迫に対抗して共同でプロテスタントの大義を守るため、他の大勢のプロテスタント諸侯と一緒にシュマルカルデン同盟を結成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%E9%81%B8%E5%B8%9D%E4%BE%AF%E9%A0%98
このように、宗教改革に、ドイツ東部のザクセンのザクセン選帝侯2代が果たした役割が極めて大きいことは疑いない。
(続く)
二つのドイツ(その6)
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