太田述正コラム#9117(2017.5.26)
<二つのドイツ(その9)>(2017.9.9公開)
(6)EU(ドイツ第4帝国)
「シャルルマーニュ以来、ドイツは、国と言うよりは、共通の言語としばしばそれ以外に他のものを共にしないところの、概念だった。
(人口の3分の1が斃れたところの、)三十年戦争、及び、二度の世界大戦群における敗北、のトラウマをここに投げ込めば、あなたは、大部分のドイツ人達がEUが自分達の諸問題への解決法であると見なし、大部分の英国人達がそう見なさないのか、を理解することができる。」(C)
「著者は、辛辣に、どのように、第二次世界大戦後の近代ドイツの父たるコンラッド・アデナウアー(Konrad Adenauer)<(注17)(コラム#198、5472、5609、5617、8284)>が、暗黒の諸力が、ロシアと折り合いを付けて、それを再び東方へと引きずって行くことを恐れ、二股に分かれた国家のうちの彼の半分を欧米同名の中に閉じ込める(lock)ように、連合諸国との秘密外交でもって懇願したか、を物語る。
(注17)1876~1967年。「西ドイツの初代連邦首相を1949年から1963年に亘って務めた。また1951年から1955年には外相を兼任した。・・・父はケルンの控訴審裁判所の書記官・・・フライブルク大学、ミュンヘン大学、ボン大学で法学と経済学を学ぶ。・・・法曹国家資格試験に合格・・・ケルン市助役<を経て、>・・・1917年から1933年までケルン市長・・・ケルンを訪問したヒトラーとの握手を拒否したため、ケルン市長とプロイセン枢密院議長の座を追われた。・・・アデナウアーが戦前所属した中央党はカトリック政党であったが、戦後、プロテスタントとともにキリスト教に基づいた政治を目指し、キリスト教民主同盟として生まれ変わり、その創設者のひとりとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%87%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC
その論決において、著者のこの歴史書は、我々を、今日における、東部の新しい政党群・・嫌欧主義(Eurosceptic)<(注18)>のドイツのための選択肢(AfD=(Alternative fur Deutschland)<(注19)>、そして、左の方では左翼党と、どちらも、混沌と破壊の新手先達(agents)だ・・に係る欧州懐疑主義の諸危険への<彼による>警告へと急き立てる。」(B)
(注18)「もともとは<英国>で欧州経済共同体に加盟することに党として賛成した労働党や保守党の内部でも懐疑的であった一派のことを指していた。その後欧州懐疑主義の示すものは拡大され、欧州連合 そのものやその政策、ユーロの導入、将来における超国家、連邦制、国家連合といった形態の汎<欧州>的な統合体の設立・移行といったものに対する懐疑論や批判論も指すようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E6%87%90%E7%96%91%E4%B8%BB%E7%BE%A9
(注19)「2013年、ギリシャ経済危機を契機に反EUを掲げて結党され、ドイツのEU離脱を最大の目標として掲げている。EU加盟国で議論となっている移民問題についても強く反対している事から右派政党とされるが、ネオナチに代表される極右的な排外主義とは距離を取っている。・・・<現在、>党首はフラウケ・ペトリー、共同党首はイェルク・モイテン。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E9%81%B8%E6%8A%9E%E8%82%A2
⇒左翼党はともかく、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E5%85%9A_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84)#/media/File:Linke_Landtage.svg
AfDは東方の党とは必ずしも言い難い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E9%81%B8%E6%8A%9E%E8%82%A2#/media/File:AfD_Landtage.svg
のではないでしょうか。
なお、左翼党については、少なくともスターリン主義党ではない、マルクス主義的政党なのでしょうから、それを「混沌と破壊の新手先達」と呼ぶのはいかがかと思います。
いずれにせよ、両党が、共に、男女一名ずつからなる共同党首制を採っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E5%85%9A_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84) (←左翼党)
ことは、構造的女性差別の欧米への異議申し立てとも受け止められるのであって、その点については好感が持てます。(太田)
3 終わりに代えて
念頭にあったにもかかわらず、最近、時間がない状態が続いていることもあり、解明するに至らなかったところの、私の諸疑問に触れて、終わりに代えたいと思います。
20世紀において、米国の人種主義諸法制をナチスドイツが参考にしたことのアナロジーなのですが、中世における、ドイツ人達のスラブ人地域への進出、植民を、英北米植民地人達/米国人達がインディアン地域への進出、植民の参考にしたのではないか、というのが、私の第一の疑問です。
私の第二の疑問は、神聖ローマ帝国は、その歴史を通じて領域のかなりの増減があったというのに、どうして、シチリア王でもあった皇帝フリードリヒ2世
https://en.wikipedia.org/wiki/Holy_Roman_Empire#/media/File:Mitteleuropa_zur_Zeit_der_Staufer.svg
の時にシチリア王国の神聖ローマ帝国編入・・その結果としてのイタリア全域の同帝国編入・・がなされなかったのか、また、ドイツ人達による神聖ローマ帝国東方のスラブ人等地域への進出、植民によって成立した新たなドイツ人圏ないしドイツ語圏が神聖ローマ帝国に編入されなかったのか、です。
ご存知の方はご教示願いたいし、調べていただくことも歓迎です。
(完)
二つのドイツ(その9)
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