太田述正コラム#9121(2017.5.28)
<ダコタ戦争(その1)>(2017.9.11公開)
1 始めに
 今年出た、インディアンに係る殺人事件を扱った本の書評群を見つけるべく検索をかけていた時に、混線してたまたまヒットした、スコット(Scott W. Berg)の『38の絞首紐群–リンカーン、リトル・クロウ、及び辺境の始まり(38 Nooses: Lincoln, Little Crow, and the Beginning of the Frontier’s End)』という2012年に上梓された本を、これも今年の本だと勘違いをして、その本の書評群を読んだ後で、この勘違いに気付きました。
 このダコタ戦争、知らなかった私の方がおかしいようで、英語ウィキペディア
α:https://en.wikipedia.org/wiki/Dakota_War_of_1862
が詳しいのは当然ですが、日本語ウィキペディア
β:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B3%E3%82%BF%E6%88%A6%E4%BA%89
も、基本的にこの英語ウィキペディアを若干圧縮したところの、詳細なものになっていることを発見し、赤面した次第です。
 ただ、若干なりとも時間をかけてしまったこともあり、まずは、日本語ウィキペディアを基本にこの事件の概要をご紹介し、その後、書評群内の記述で、ウィキペディアには載っていないものを中心に補足紹介をさせていただくことにしました。
 もちろん、その途中で、適宜、私のコメント差し挟もう、という魂胆です。
A:http://notevenpast.org/38-nooses-lincoln-little-crow-and-the-beginning-of-the-frontiers-end-by-scott-w-berg-2012/
(5月23日アクセス。以下同じ)
B:http://www.startribune.com/nonfiction-38-nooses-lincoln-little-crow-and-the-beginning-of-the-frontier-s-end-by-scott-w-berg/181549031/
C:https://www.dallasnews.com/arts/books/2012/12/07/book-review-38-nooses-lincoln-little-crow-and-the-beginning-of-the-frontier-s-end-by-scott-w.-berg
D:http://articles.latimes.com/2012/dec/07/entertainment/la-ca-jc-scott-berg-20121209
2 ダコタ戦争
 以下、[]内はβによる。
 ダコタ戦争(Dakota War of 1862=Sioux Uprising、Sioux Outbreak of 1862=the Dakota Conflict=he U.S.-Dakota War of 1862=Little Crow’s War)は、「<米>国ミネソタ州南西部のミネソタ川沿いで、1862年8月17日に始まった、<米>国とダコタスー族インディアンとの間の紛争である。
 「戦争」と名は付いているが、実情は飢餓状態となった少数民族の「暴動」であり、暴動のその結果は、米国処刑史に残る38名のダコタ族の一斉絞首刑と、ミネソタからのダコタ族の追放という、インディアンに対する<米>国のお定まりの民族浄化となった<ところの、>西部大平原における「インディアン戦争」の先駆けとされている。・・・
 国が南北戦争の渦中にあったために、<政府や白人達が破り放題であったところの、>条約で補償された年金の支払<についても、それまでも滞りがちであったというのに、完全に>止まってしまった。・・・
 新参の白人入植者に土地を奪われ、年金(食糧)の支払い<が滞り、なくなる、といった具合に。>条約は破られ、さらに天候不順による穀物の不作に続く食糧不足と飢饉で、大切な種牛まで食いつぶすに至り、ダコタ族の間には大きな不満が高まってい<き、彼らは暴動を起こすに至った。彼らの大酋長がリトル・クロウだった>・・・
 南北戦争の対処で多忙だった・・・リンカーン大統領は、ミネソタから繰り返し救援要請を受けてようやくダコタ族の殲滅をジョン・ポープ少将に命じた。ジョン・ポープはリンカーンの同意のもと、以下の声明を行った。
「私の目的は、スー族をすべて皆殺しにすることだ。彼らは条約だとか妥協を結ぶべき人間としてなどでは決してなく、狂人、あるいは野獣として扱われることになるだろう。」
⇒人種主義において、南部よりも悪質だったところの、北部の代表たるリンカーンにふさわしい、ホンネの吐露ですね。(太田)
 ポープは・・・<2個>ミネソタ志願歩兵連隊・・・を率いた。・・・
 <政府側の勝利に終わった>ウッドレイクの戦いの直ぐ後、ダコタ族戦士の大半は9月26日に・・・降伏した。・・・
 <この間、>殺された白人の数<は>・・・450名から800名の間と推定されている。歴史家のドン・ハインリッヒ・トルズマンは、「<米国>史の中で2001年9月11日に同時多発テロが起こるまで、白人民間人の犠牲としては最大のものだった」と述べているが、これは暴動に関係のないダコタ族の民間人の犠牲を考慮に入れていない・・・。・・・
 白人から「戦争犯罪人」とされたダコタ族戦士の大半は、」・・・<その>前に去っていた<のだが、>降伏したダコタ族戦士は11月に行われた軍事裁判まで留め置かれた。
 <結局、>12月遅くまでに、2000人以上のダコタ族がミネソタ州の監獄に収監された。彼らの中には女子供を含む、暴動とは全く関係のないダコタ族もいたが、すべて塀の中に追い込まれた。・・・
⇒ナチスドイツの先の大戦中のユダヤ人やジプシーの強制収容、そしてもちろん、米国の太平洋戦争時の日本人の強制収容、を彷彿とさせます。(太田)
 1862年12月初旬、<この>2000人以上のダコタ・スー族のうち、392人・・・<が>軍事裁判にかけられ、・・・審議なし<で>・・・307人が殺人と強姦で有罪とされ、死刑を宣告された<が、>・・・ミネソタ州聖公会の司祭でインディアンとの和平論者であるヘンリー・ウィップルは、リンカーンに寛大な処置を要請した・・・
「この由々しき犯罪を責めるとしても、その責めどころを間違わないでほしい。私は人々が声を一つにして立ちあがり、非道極まりないインディアンに対する管理制度の改革を要求してくれるよう要望する。このインディアン管理制度は、我々に“苦悶”と“血”という結果をもたらすのみなのだ。」<と。>
 <こ>の要請を無視できず、・・・リンカーン大統領は<、>裁判記録を自ら照査し、<米>国に逆らって「戦争」に参加した者達と、白人市民に強姦や殺人を犯した者達とを区別し<たということにして、うち>38名のスー族囚人の、死刑執行の署名を行った。
 リンカーンが死刑署名した囚人は、インディアンにとって精神的支柱である酋長や呪い師だった。・・・インディアン社会における酋長は「軍事指導者」でも「首長」でもなく、「調停者」である。しかし白人は戦争には司令官がつきものだという思い込みから、酋長を「戦争責任者」であると一方的に決めつけ、彼らを処刑したのである。・・・
⇒この司祭にせよ、リンカーンにせよ、厳し過ぎる復讐が、インディアン側による激烈な再復讐を呼ぶ事態は避けたかった、というだけのことでしょう。(太田)
 埋葬前に・・・素性の知れない者がインディアンの皮を剥いだといわれている。噂に拠れば、その皮を入れた小さな箱が、後にマンカトで売られたという。
 また、当時解剖学研究のため、死体には高い需要があったので、何人かの医者は処刑後の死体を要求した。墓が暴かれ、死体は地元の医者達に分け与えられた。<うち一人の医師が、一人のインディアン>・・・の死体を・・・運び、医者仲間の前で解剖した。その後骸骨を洗い乾燥しワニスを塗って、自分の自宅兼事務所の鉄製ケトルに保管した。・・・
⇒この類の蛮行が、太平洋戦争の時に、太平洋上の諸島で、米軍兵士によって亡くなった日本兵士に対して行われたことはご存知の通りです。(太田)
 リンカーンは、・・・軍事裁判によって「有罪」とされた残りのダコタ・スー族を、その冬の間、監獄に留めた。翌春、彼らはイリノイ州ロック・アイランドに移され、そこでほぼ4年間収監された。彼らが釈放されるときまでに、インディアン囚人の3分の1は病気で死んだ。生存者は既にミネソタを追放されていたネブラスカ州の家族の元に送還された。
 また、暴動と何の関係もない、女子供と老人を含む1,700人のダコタ族が、スネリング砦近くのパイク島収容所に拘留された。生活環境は劣悪で、疫病によって300人以上が死んだ。
 1863年4月、リンカーン大統領と<米>議会はウィップル主教の要望を聞き流し、ミネソタのダコタ族保留地を廃止した。また、<米>国による条約破りの事実はまったく顧みずに「ダコタ族との以前の条約全てを無効とする」と宣言した(もともと条約はまともに機能していなかった)。
 リンカーンは、<そもそもこの暴動の契機となったところの、因縁の>ダコタ族に対する年金支払いを以後二年間停止し、議会の年金予算140万ドルを全額ミネソタの<白人>遺族の補償とした。・・・
 リンカーンと議会は続いて、「ダコタ族全てをミネソタ州から追放する」と決定した。「ダコタ族すべての追い出し」のために、州境界内で見付けられたダコタ族インディアンには、一人あたりの頭の皮に25ドルの高額賞金が掛けられた。州を挙げた白人による「インディアン狩り」が始まった。
 この「スー族皆殺し」方針の唯一の例外は、戦争の間も中立を守り、あるいは白人入植者に協力した「良いインディアン」であるムデワカントン族のバンド208名だった。彼らは殺害の対象からは外されたが、やはりミネソタからは追い出されることとなった。」
⇒リンカーンの方が、前出の司祭よりも、より、インディアン側による再復讐への耐性が強かった・・利益追求性及び死傷受忍性が強かった・・、ということでしょう。
 政治家と聖職者の違いですね。↓
 「ダコタ族の追放後、逃亡者や戦士達がラコタ・スー族の土地で合流した。ミネソタ州連隊とラコタ・ダコタ連合との間の戦闘は1864年まで続き・・・7月28日の「キルディア山の戦い」でスー族<は>完璧に打ち<負かされた。>しかし、これは<米>国とスー族との間の最後の戦いにはならなかった。2年のうちに、白人たちは不可侵条約を破ってラコタ族の土地へ侵入してレッドクラウド戦争を起こし、サウスダコタ州のブラックヒルズの占領を目論んで条約を破り、1876年にブラックヒルズ戦争として知られる侵略戦争を起こした。1881年までに、スー族の大半は<米>軍に降伏し、1890年、ウーンデッド・ニーの虐殺で実質的なスー族の抵抗を終わらせ、これが合衆国とスー族との間の最後の主要武装闘争となった。」(β)(太田) 
(続く)