太田述正コラム#9123(2017.5.29)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その3)>(2017.9.12公開)
「天皇号がつくられたの<は>7世紀末であ<り、>天皇号以前の日本の君主は「大王(おおきみ)」と呼ばれていた・・・。<(注11)>」(20)
(注11)「君主の公的な表記としての「天皇」の採用は、天武朝〈(673~686年)〉であった可能性が高いとされる。唐の高宗が674年に「皇帝」を「天皇」と改称したのにならい、天武天皇も天皇表記を採用したのではないかと推測されている。「天皇(大帝)」は<支那>古代の宇宙の最高神天帝の名で、道教思想と深い関わりを持つが、天武の施政には道教的色彩が認められ、天武が天皇表記を用い始めたとする説を補強している。・・・
<そして、>皇后の表記とともに飛鳥浄御原令[(持統3年6月(689年))]において規定され、使用されるようになったという・・・説が・・・有力とされる。・・・
<ちなみに、>万葉集では「大王<(オオキミ)>」の表記が57例<で、>・・・「大君<(オオキミ)>」<の表記が1例、>・・・「天皇」の表記が12例知られ、このうち7例が“オオキミ”、5例が“スメロキ”と訓ませている。それぞれの文意の比較から“オオキミ”は今上天皇、“スメロキ”は過去の歴代天皇や皇祖神に対して用いられていることがわかっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E5%A4%A7%E7%8E%8B
持統天皇は天武天皇(?~686年)の皇后だった。ちなみに、天武天皇は、「天皇を称号とし<ただけでなく、>日本を国号とした最初の天皇とも言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、・・・律令のうち令のみが制定・施行されたもので・・・日本史上、最初の体系的な律令法」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%B5%84%E5%BE%A1%E5%8E%9F%E4%BB%A4 ([]内も)
「『万葉集』・・・は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集であ<り、>・・・成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
⇒漢字表記はともかく、大和言葉では、少なくとも8世紀後半・・平安時代直前・・までは、天皇号が作られてからも、今上天皇は一貫して「オオキミ」と呼ばれていたようですね。(太田)
「古代の家族は、女性のところに男性がむかえられて子供たちをもうけて子育てをする形でつくられる。
このあと成人した子供たちの多くは自立し、新たな家族をつくる。
やがて一つの家族の長となる男性が、引退するときが来る。
このときかれは、すでに別の家族を営む男性の子供の中の適当なものを選んで自分の地位を継承させるのである。
<なお、財産は、基本的に、母親からその女性の子供達へと承継される。(26掲載図)>
このような古代日本の社会では、父の地位を受け継いだ子供だけが父の存在をつよく意識することになってしまう。
そしてそれ以外の自立した子供たちは<、男女を問わず>、母親を父親よりはるかに親密なものと感じるのであろう。
このようなはるか昔の日本の社会が、母なる女神<・・天照大神・・>を生み出したのである。」(25)
⇒このくだりは、私の抱いてきたところの、平安時代の貴族の夫婦・親子像と概ね合致していますが、基本的な話ですから、武光には、この箇所くらいには典拠を付して欲しかったところ、それに加えて、縄文人と弥生人のそれぞれの夫婦・親子像がどのようなものであったのか、そして、それぞれと、この平安時代の貴族の夫婦。親子像とはどう違うのか、また、それが平安時代の庶民の夫婦・親子像とはどう違うのか(、それとも同じなのか)、等を教えて欲しかったところです。
これらについて、私個人が、二次ソース群を用いて追求する能力も時間もないので、貴族の頂点である天皇家に関してだけ、これまで申し上げてきたことをベースに、私の仮説を提示しておきます。
父系制の弥生人達の酋長達は、弥生時代に、母系制の縄文人達を支配するにあたって、双方にとって折衷的であったところの、権威(祭祀)を担当する女性を正の長・・母系制で承継される・・とし、それを権力(政治・軍事)を担当する男性が副の長として支える体制を構築した。(邪馬台国の体制が念頭にある)。(コラム#省略)
しかし、ヤマト王権下の、私の言う拡大弥生時代になると、国際情勢が緊迫化し、それに伴って、日本が支那から先進的文物を継受し始めると、支那の父系制の影響を受けて、天皇(大王)位の継承は母系制から父系制に切り替えられることとなるも、引き続き、女性の天皇位への臨時的な就任は認められ続けた。
やがて、女性天皇は出現しなくなった、すなわち、権威と権力の双方共を男性たる天皇が、事実上常に担い続けることになった、ものの、女性たる皇后等の天皇の配偶者達が、天皇家の全部または(分割してそれぞれが)一部の家政・・家産管理を含む・・を、天皇/最高権力者の容喙を受けずに担う体制は、引き続き、維持されて行く。(ここは武光の記述を踏まえたが、自信はない。)
そして、私の言う、平和な第一次縄文モードの時代になると、(天皇を無答責化することによる天皇制の永続化を期す狙いから、)再び、権威と権力の分離が生じることとなったところ、最初のうちは、母系制的に、摂関政治という形で、権威は天皇が担い、権力は天皇の(藤原氏たる)母親が・・但し、名目上は、この母親の父親ないしは兄弟が就任する摂政・関白が・・担う体制になったが、国内の治安が乱れ始めると、今度は、父系制的に、院政という形で、権威は天皇が担い、権力は治天の君たる、その父親が上皇ないし法王として担う体制となった。(基本部分のコラム#省略)
https://www.athome-academy.jp/archive/history/0000001033_all.html (←ヒントを得た。なお、この典拠の中に、律令上は(支那の場合とは違って)女性天皇を認めていた旨の記述がある。)(太田)
(続く)
武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その3)
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