太田述正コラム#9141(2017.6.7)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その9)>(2017.9.21公開)
「日本列島独自の文化が生まれてから現在までの約1万8000年間の中の、6分の5にあたる約1万5000年間が縄文時代<(注26)>であったのだ。
(注26)縄文時代は、「約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)」とされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
⇒縄文時代の始まりを通説より3000年も遡らせていますが、武光は考古学者ではないのですから、ここでも、単に年の引用を間違えた、ということだと思われます。(太田)
、
それゆえ現代まで、日本文化の中に縄文的要素が多く残ることになったのである。・・・
⇒ここは、我が意を得たり、ですね。(太田)
縄文人があらゆる自然物を信仰の対象とした精霊崇拝(アニミズム)の考えをとっていたことがわかっている。
縄文人はすべて「私たちは、日本の豊かな自然に生かされている」と考えていた。・・・
かれらは、山の登り口や川岸や海岸を祭りの場とした。
さらに集落の中央に、精霊の祭祀を行なう広場を設けた。
そこは、人びとが集まる神聖な場とされていた。
縄文時代の住居は、中央の広場を囲んで円形に営まれることが多かった。
これは、「誰もが広場と等距離のところに住んで平等な社会をつくっていこう」とする考えに従ってなされたものと考えてよい。
私は縄文人のそのような平等と調和を重んじる発想を「円の思想」と呼んでいる。
⇒重要かつ魅力的な説ですが、「円の思想」や「円環の思想」には別の意味もある
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56432790.html
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/11/1339.html
ことから、別の用語を用いた方が混乱を避けられると思いますし、縄文遺跡には、円環状の遺跡のほか、半環状の遺跡もあり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
また、縄文時代の最大の遺跡である三内丸山遺跡(コラム#52、1650、3072、5079、5968、8877)は、そのどちらでもない、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
というわけで、果たして「縄文時代の住居は・・・円形に営まれることが多かった」と言い切れるのか疑問です。(太田)
<そして、>縄文人の祭祀の場から<は>、酒壺や楽器に用いられた太鼓状の土器<(注27)>や笛状の土器<(注28)>が出土している。
(注27)有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)。酒壺説と楽器説が対立している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%AD%94%E9%8D%94%E4%BB%98%E5%9C%9F%E5%99%A8
写真。
http://www.tamagawa.ac.jp/museum/archive/1998/086.html
(注28)写真。
http://okinawa.ave2.jp/okinawa/masat/140520Hokuriku-Jomon/23Toyama_Archaeological_museum/20Jomon/page_thumb13.html
これは縄文人が、「祭りは精霊と人間がともに楽しむ場である」と考えていたことを示している。
このような祭りは、集落の者が仲良くして共に楽しく過ごそうという発想から行なわれのであろう。」(56~58)
⇒このくだりは首肯できます。(太田)
(続く)
武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その9)
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