太田述正コラム#9157(2017.6.15)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その14)>(2017.9.29公開)
「<それまで、狩猟採集社会であった、>朝鮮半島<では、>・・・紀元前1000年頃にかけて、朝鮮半島南端でようやく水稲耕作がなされるようになった。
これは朝鮮半島の中で最も暖かい朝鮮半島南端だけが照葉樹林帯であったことによるものである。
朝鮮半島の稲作は、<同じ照葉樹林帯の>江南(中国の揚子江の下流域)から対馬海流を用いて航行してきた航海民(船を操る商人)によって伝えられたと考えられている。
朝鮮半島南端に稲作が始まったのとほぼ同時期に、中国の黄河流域から伝えられた麦作も朝鮮半島の北部、中部に広まっている。
⇒ということは、麦作の北支那と稲作の南支那の、個人主義的文化と集団主義的文化の違い(コラム#8949)と類似の文化の違いが、朝鮮半島の北部と南部の間にあることを推認させます。
また、陸路と海路・・後者は潮流の関係から一方交通的だが・・の難度の違い、かつまた、支那の東北地方は非漢人地帯であったこと、から、朝鮮半島の北部は非漢人系、南部は漢人系であることも推認できそうです。
(以上のことは、次回のオフ会での「講演」内容とも密接な関係が出てきます。)(太田)
考古資料によって、紀元前1000年頃に水稲耕作が九州北部で始まったことがわかる。
これが、弥生時代の開始とされる。
このあと西日本に、水稲耕作に基礎をおく弥生文化が徐々に広まっていった。
九州、四国と本州の約三分の二が、朝鮮半島南端と同じ照葉樹林体である。・・・
日本古代の稲作文化は、朝鮮半島南端から入ってきたものとみなしてよいと考える。・・・
<この>弥生文化は紀元前500年から紀元前500年から紀元前400年頃になって、近畿地方にまで広まったと考えられるようになったのである。
近畿地方が弥生文化圏になるまでに、500年から600年程度要したのだ。
東北地方が弥生文化圏になるのは、それからさらに700数10年のものことである。
弥生文化は、きわめてゆっくりした速度で、日本の西から東、さらにその北へと広まったのである。
そうすると弥生時代の開始を、新たな征服者の渡来と結びつけるのが難しくなる。
さらに近年になって、弥生時代開始時(起源前1000年頃)の福岡県板付遺跡で、興味深い発見がみられた。
その遺跡の水田跡が見つかった箇所と同じ層(同じ深さのところ)から、縄文時代晩期(紀元前1500年~紀元前1000年頃)の形式の土器が大量に出土したのである。
板付の人びとは縄文土器を用いて縄文時代風の生活を送りながら、新たに水稲耕作を学んで水田を開発したことになる。
同じ板付遺跡のより新しい層では、弥生式土器が出土している。
それゆえ板付の人びとは稲作になじんだあとに、縄文土器より耕作に適した朝鮮半島風の弥生式土器を使うようになったということになる。
弥生人は縄文人と全く異なる人びとではない。
縄文人が稲作を身に付けて、弥生人に変わったのである。
⇒武光は、「弥生人の形質は生来的に退化し易い形質で、「食生活の向上」による咀嚼の減少が咀嚼力の退化に繋がり、それが結果的に日本人の生命力自体の退化に繋がったとしている・・・丸橋賢」説に拠っているようですが、私は、「福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が渡来人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血して名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着したとし・・・混血が起きた地域を西日本<に>限定<しつつ>、東日本では・・・在来の縄文人が弥生人化したと理解している・・・佐原真」説により説得力を覚えています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
より踏み込んで申し上げれば、佐原真説の「混血が起きた地域を西日本」以下を消去したものに最も説得力を覚えているのです。
というのは、「現生人類は20万年前にアフリカで誕生し、その後他の大陸に進出しました。<欧州>に向かった人たちと別れ、東に進んだグループのうち、最初に分岐したのはパプアニューギニアからオセアニアへ渡った人たちです<が、>・・・次に・・・およそ4万年前から2万年前の間に・・・大陸から日本に渡った・・・のが縄文人<であり、>・・・他のアジア人はその後、<支那>や東南アジア、さらにはアメリカ大陸に向かう集団へと別れました。現代の日本人もこちらのグループに入っています。これを見る限り、縄文人は日本人の祖先には見えませ<が、>同時に、・・・縄文人と現代の日本人のDNAのうち12%は共通<で>・・・す。・・・<これは、>縄文時代の末以降、再び大陸から日本に大勢の人・・・いわゆる渡来系の弥生人・・・が渡ってき<た結果、>・・・稲作文化を持ち込んだ渡来系弥生人は人口の多くを占めるようになりますが、その過程で縄文人と幾らか交わりを持ったため、現代の日本人には12%だけ縄文人のDNAが伝えられたのです。」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/254405.html
「これはあくまで福島県・三貫地貝塚のわずか2人のDNA解析の結果です」(上掲)が、最新の研究成果であり、これが縄文人一般にあてはまるとすれば、佐原真説の前段が正しい、ということになりそうだからです。(太田)
(続く)
武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その14)
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