太田述正コラム#9161(2017.6.17)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その15)>(2017.10.1公開)
「現在の神道は、農耕神の祭祀を基本とするものになっている。
神社の最も重要な祭祀は春祭りと秋祭りであるが、これらはいずれも稲作と深く関わるものである。
春祭りは、稲作を始める前に神に豊作を願う行事である。
秋祭りは、収穫感謝の祭りになる。・・・
皇室が行なう宮中祭祀でも、春祭りにあたる祈年祭<(注38)>と秋祭りにあたる新嘗祭(にいなめさい)が重んじられている。
(注38)きねんさい、としごいのまつり。「<旧暦時代も新暦時代も、概ね>毎年2月に行われ、一年の五穀豊穣などを祈る神道の祭祀である。11月の新嘗祭と対になるとされるが、皇室祭祀令では祈年祭は小祭、新嘗祭は大祭とされていた。・・・本来は民衆が行う田の神への予祝祭であったが、<支那>の大祀祈殻の要素を取り入れ、律令国家祭祀として成立した。・・・延喜式神名帳記載の全神社(3132座)が祈願の対象であった。平安時代には形骸化し、神祇官の内部でのみ行う祭祀となった。平安時代中頃になると、天照大御神を主に祀る祭祀と認識され、院政期には天照大御神を奉祀する天皇の祭祀として厳修された。13世紀初め、鎌倉時代初頭<に>・・・は、祈年祭は伊勢神宮関係の祭祀とされた。室町時代後半の戦乱期には、他の祭祀と同様に廃絶し、神祇官の伯を世襲した白川家が行うようになった。江戸時代に入り、元禄年間に宮中での祈年祭の復興が企画されたが為らず、明治時代の神祇官復興により再開された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%88%E5%B9%B4%E7%A5%AD
弥生時代の農耕は、集落全員の共同作業としての性格をつよくもっていた。
そのような農耕社会では、「自分の家族だけを守る。自分の家の先祖」という発想は育ちにくい。
人びとは、集落のみんなの先祖たちが農地を開発して「くれた」と考えて、集落の住民の先祖の霊魂をまとめて祭ったのである。
やがてそのような祖霊の権威が高められていって、このような発想がとられるようになった。
「祖霊が集まって、動物、植物などのあらゆる自然物の霊魂(精霊)を率いて、作物を育てて私たちを見守ってくれる」
祖霊が、土地を守る農耕神として祭られるようになっていったのである。
最初は河川のそばに広がる低湿地で稲作が行なわれた。
しかし弥生人はまもなく水路をつくって川の水をひいて、標高の低いところの原野を開発していった。
川は、近くの山から流れてきている。
そのために弥生人は、農耕社会がある程度発展した時期に、「川に水を流して稲を育ててくれる神が山にいる」と考えるようになった。
そのような神は、水の神であり、かつ作物を育てる農耕神とされた。
縄文人はもとから、山を獲物や植物を育てる神が住む神聖な地と考えていた。
そのために縄文時代の信仰の多様な要素がしだいに農耕神の信仰にとり込まれて、「山に住む農耕神は、すべての事をうけもつ万能の神である」とも考えられるようになっていった。・・・
⇒武光は断定的に記していますが、それなら、なおのこと、根拠、典拠を示す必要がありました。(太田)
<また、>古代人は、脱皮を繰り返す蛇は死と再生を繰り返して永遠に生きるのではないかと考えた。<(注39)>
(注39)「古代エジプトの歴代ファラオは、主権、王権、神性の象徴として蛇形記章を王冠に戴いた。・・・ユダヤ教やキリスト教、イスラム教(アブラハムの宗教)では聖書の創世記から、ヘビは悪魔の化身あるいは悪魔そのものとされてきた。<また、>ギリシャ神話において<は>ヘビは生命力の象徴である。<(アスクレピオスの杖、ヒュギエイアの杯、ケリュケイオン、参照。)>・・・<支那>神話・・・では、蛇神が道祖として信仰されてきた。・・・インド神話においては・・・<各種>蛇身神が重要な役割を果たしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%93
縄文人が苦労して集めた木の実が、ネズミや野鳥に食い荒らされることもある。
細い体をした蛇は、人間に害を及ぼすネズミや野鳥を一飲みで飲み込んでしまう。
しかも手も足もない蛇が地面を素早くはい回り、川や池の中も自由に泳ぎまわる。
そのような蛇を、集落の守り神と考えた縄文人も少なくなかったろう。
弥生時代に稲作が広まると、蛇はさらに人びとに身近なものになった。
蛇は弥生人にとって最も大切な米穀を、ネズミや雀などの野鳥から守ってくれるからである。・・・
農地に引く水の水源には蛇が多く住んでいる。
そのために弥生時代に、蛇は水をつかさどる山の神の化身や神のつかいとみなされ、信仰の対象になっていったのである。中国から竜神信仰が伝わると、蛇神は主に「竜神」と呼ばれるようになった。<(注40)>
(注40)「科学史家の荒川紘は、竜は<支那>では皇帝の象徴であったが、日本では天皇の権威の象徴として用いられることはなかったと述べ、その背景には<支那>をただ模倣するのではなく日本の天皇の<支那>に対する独自性を宣揚しようとの意図があったのではないかとみている。また、日本の竜は蛇との区別があいまいで多種多様な姿形と性格を呈しており、それは在来の蛇信仰に外来文化の竜が接木されて混淆した結果であろうと推察している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%AB%9C
東北大理学部物理学科卒、元静岡大人文学部社会学科教授
http://researchmap.jp/read0010891/
文化人類学者は、蛇の姿をした水の神を竜神として祭る信仰を、「竜蛇(りゅうじゃ)信仰」と呼んでいる。
竜蛇信仰は、東アジアと東南アジアの広い範囲にみられた。」(85~90)
⇒少なくとも、日本語で検索した限りにおいては、日本特有の信仰のように見受けられた・・荒川紘説(上掲)や
http://www.izumo-murasakino.jp/izumo-ryujya.html・・のですが・・。(太田)
(続く)
武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その15)
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