太田述正コラム#9163(2017.6.18)
<改めて米独立革命について(第I部)(その5)>(2017.10.2公開)
 (4)エピローグ
 「コプリーは、1815年に、彼の諸債務が、自分の、流行にそぐわない、売れない絵画群の勝をはるかに上回る状態で、亡くなった。
 19世紀末の「植民地時代のリバイバル(colonial revival)」になって、コプリーのアメリカ人達の肖像画群は、今や、毒気を抜かれた(sanitized)ところの、米独立革命の視覚的諸資料として敬われることになったものの、彼のイギリス時代の肖像画群は、彼がロンドンに来た最初の10年間の間に搔っ攫った尊敬を回復するにはまだ至っていない。
 コプリーは、1827年に貴族に列せられた息子<(注15)>、及び、奴隷労働に立脚して財産を築いた、金持ちの商人と結婚した後ボストンに移住した娘<(注15)>を残した。」(γ)
 (注15)John Singleton Copley, 1st Baron Lyndhurst。1772~1863年。三度英国の大法官(Lord Chancellor)を務める。ケンブリッジ大卒、リンカーン法学院卒で弁護士、保守党下院議員、そして、大法官就任に伴い男爵位を受爵。その後も、上院で活躍。最初の妻の死去の後、ユダヤ人女性と結婚したこともあり、英議会議員にユダヤ人がなる道を開いた。
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Copley,_1st_Baron_Lyndhurst
 (注16)Elizabeth Clark Copley。1770~1866年。Gardiner Greene と結婚し、7人の子供達を生んだ。
 彼自身が描いたこのコプリー一家の肖像画の真ん中にいるのが、少女時代の彼女。↓
https://www.google.co.jp/imgres?imgurl=http://lh4.ggpht.com/E85PKlEtXB1nDZpyOnkuxF8y7xolipVGaCnJG17pV0iK_zv-tHlN8ogbQNpW%3Ds1200&imgrefurl=https://www.google.com/culturalinstitute/beta/asset/-/HAHtxG9tODJteg%3Futm_source%3Dgoogle%26utm_medium%3Dkp%26hl%3Dja&h=961&w=1200&tbnid=LYz2AdFvexJw8M:&tbnh=160&tbnw=199&usg=__LjZKJyGe_tjLCuHFSmhUEcK0-bo=&vet=10ahUKEwiYuPi6l8fUAhXIHpQKHRHaBX8Q_B0IgQEwCg..i&docid=KrSIC7gQ0AXLqM&itg=1&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiYuPi6l8fUAhXIHpQKHRHaBX8Q_B0IgQEwCg
 上記部分だけを取り出して、コプリーの記念切手が1965年以米国で発行された。↓
https://www.ancestry.com/genealogy/records/elizabeth-clarke-copley_29653867
https://www.google.co.jp/search?q=Elizabeth+Clark+Copley&client=firefox-b&tbm=isch&imgil=gm3PDFXjOOEhYM%253A%253B-XFLKRBz3w18JM%253Bhttps%25253A%25252F%25252Fwww.pinterest.com%25252FLucyfunk123%25252Fartist-copley-john-singleton%25252F&source=iu&pf=m&fir=gm3PDFXjOOEhYM%253A%252C-XFLKRBz3w18JM%252C_&usg=__xuOv7jO5GQ4KK_FcNFjUQNsnYLQ%3D&biw=1642&bih=948&ved=0ahUKEwjvw_2klMfUAhUBtpQKHdcVA-wQyjcIUg&ei=QVJGWa-fHIHs0gTXq4zgDg#imgrc=2Kg3xh_985sCCM: 
 ロンドンにはコプリー・スクエア(Copley Square)はない<(注17)>し、英国人で彼のことを聞いた人は少ない。
 (注17)ボストンにはコプリー・スクエア、コプリー・スクエア・ホテル、コプリー」・プラザ(Plaza)があるし、コプリー・タウンシップがオハイオ州に、コプリー・クレーターが水星にある。
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Singleton_Copley (前掲)
 しかし、彼の息子は、リンドハースト卿として、1827年に米国を訪問し、ジョージ・ワシントンに会っている。
 そして、コプリーの娘のベッティ(Betsy)は、長い反映した人生を、その多くを、彼女の父親がかつて生まれたの同じボストンで、生きた。」(α)
 (5)評価
 この文章を銘記しておこう:コプリーは選択肢が殆どないと思った。
 著者が強調するのは、コプリーがどちら側にくみするのかを選択したのではなく、著者が考えるに、「彼は選択された」という点だ。
 18世紀には、自己代理(individual agenc)・・強力自律(bold autonomy)と自助性向(readily pulled bootstraps)・・の諸観念は、まだ、その緒に就いたばかりだったのだ。
 (ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)の自叙伝・・上昇志向者のためのハウツーもの・・は、1790年代になって刊行されている。)
 コプリーが別の女性と結婚しておれば、彼は米独立戦争後の年月を英国の王女達ではなく、アメリカの革命家達を描いて送ったかもしれない。」(A)
3 終わりに
 感想の第一は、英領北米植民地において、個人主義者達が人間主義的者達を追い出す形で独立革命が起き、その結果として、裸の個人主義社会たる米国が生誕したらしい、ということです。
 (英本国やカナダ等は、個人主義がメインで人間主義的がサブの社会であり続けたわけですが・・。)
 感想の第二は、米独立革命は、文字通り、英国の内戦・・17世紀の第一次内戦に続く、18世紀の第二次内戦・・であったということであり、内戦前、内戦中、内戦後しばらく、は、英国とアメリカ/米国は、(感想の第一で述べた違いこそあれ、)基本的に一体であった、ということです。
 以下は、このシリーズを書き終え、かつ、このところの、英米を一括りにした英米の識者達による諸論考に接したことを踏まえ、たつけたりです。
 その後、米国の人種構成が、米国における、(そこには黒人奴隷達やアメリカ原住民達が元から存在していたところ、)英国人ならぬ欧州人達のシェアの増大、そして、それに引き続く、ヒスパニック系やアジア系の人々の増大、によって、英国の人種構成との間に乖離が生じると共に、米国での人種主義の亢進、そしてまた、前述の裸の個人主義のフロンティア征服過程での一層の亢進、によって、米国は、アングロサクソン文明と欧州文明のキメラ文明化し、英米の一体性は絶たれることになってしまうわけですが、第二次世界大戦後、英帝国の遺産たる、英国の人種構成の複雑化・・アジア、アフリカ系等の住民の増大・・、及び、英国民の矮小化、からか、サッチャー政権以降の英国社会において、裸の個人主義化が起き、同時期に米国で起きていた、レーガン政権の裸の個人主義回帰と同期したのは、今にして思えば、来るべき、英国のコービン的政権と米国のサンダース的政権という、(逆方向への)人間主義的化、という形での同期の前触れであったのかもしれない、という気がしてきました。
 つまり、英米両国・・英には拡大英国諸国を含む・・は、ついに、米国が英国化・・より正確にはイギリス化・・することによって、両国は再び一体化して行くとば口に立っているのではないか、という気がしてきた、ということです。
 英国がブレグジットを敢行しようとしているのも、(拡大英国諸国との凝集力強化の目論見に加えて、)それを無意識的に追求しているからではないか、とも。
 仮にこれが私の白昼夢でないとすれば、それは、英国にとってもいいことですが、それ以上に、米国にとっても、ひいては世界にとっても、嘉すべきことなのですが・・。
(完)