太田述正コラム#9173(2017.6.23)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その17)>(2017.10.7公開)
「縄文人は水稲稲作を学んで弥生文化をつくり上げたが、弥生時代に祖霊信仰にもとづく男性の農耕神の祭祀でも、女性が祭祀を主宰する形のまま続いていたとみられる。・・・
⇒弥生人=縄文人、という武光の論調には甚だ違和感がある、と再度申し上げておきます。(太田)
弥生時代前期の100人から200人規模の集落では、男性の指導者が農耕の指揮をとり、女性の指導者が祭祀を担当したとかんがえてよい。
そして紀元前1世紀末に弥生時代中期が始まると、そのような弥生時代の社会に大きな変化が起こった。
それは江南(長江下流域)から来た航海民が九州に来て、江南のすすんだ航海術を九州に伝えたことをきっかけに起こったものである。<(注43)>
(注43)この説は、武光自身が、『九州水軍国家の興亡: 古代を検証する』(2001年)の中で展開した説、「原アジア人の最も有力な集団がチベットにいたとみられる。彼らは氷河期が終わり、チベットが住みにくくなると、四川省に移り、そこから揚子江を下って江南に定住した。漢民族が江南に進出したことによって、江南を追われた原アジア人の航海民の一部が北九州に定住し、小国家をつくった。やがて彼らは西日本に広がり、そのなかから大和朝廷を建てたのではないか。つまり、江南起源の水軍(航海民)の集団が、天皇家の先祖である。」
https://books.google.co.jp/books/about/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%B0%B4%E8%BB%8D%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AE%E8%88%88%E4%BA%A1.html?id=cjYpAAAACAAJ&redir_esc=y
を水で薄めたもののように見える。
その時代の朝鮮半島北部には、楽浪郡という中国の前漢期の植民地があった。
そのため朝鮮半島に近い北九州沿岸部の人びとが新たな航海術を得て、楽浪郡に交易に出かけるようになったのだ。
これによって楽浪郡から青銅製の銅鏡、銅剣、銅矛などの祭器が、大量に日本に輸入されるようになった。<(注44)>
(注44)銅鏡、銅剣、銅矛の各日本語ウィキペディアには、それが楽浪郡から輸入されたことについての直接的言及はない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%8F%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E5%89%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E7%9F%9B
100人から200人程度の集落では、貿易船を仕立てるのが難しい。
そのために北九州沿岸部で小さな集落がまとまって、貿易のための人口2000人程度の小国がつくられた。<(注45)>
(注45)楽浪郡(BC108年~AD313年)と日本列島の関係については、ネット上では、壱岐及び出雲との関係について、「日本の壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示す。姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E6%B5%AA%E9%83%A1
という記述を見出したが、九州との関係については見出すことができなかった。
⇒いずれにせよ、どうやら、武光は、『九州水軍国家の興亡: 古代を検証する』の中で展開した、日本列島における小国家の誕生の担い手が渡来人であるとする説、から、弥生人であるとする説、へと変更したようですね。(太田)
太陽の光を受けて輝く銅鏡などは、小国の首長や巫女の権威を大きく高めるものであった。
それと共に輸入された農工具は、小国の人びとの生活を大きく向上させた。
北九州に豊富な青銅器や鉄器があることを知った西日本の首長の多くは、船を送って北九州の小国と交易しようと考えはじめた。
そのためにかれらもまとまって新たな小国をつくり、北九州の小国との交流をはじめた。
このようにして1世紀末頃までに、瀬戸内海沿岸や近畿地方以西の日本海沿岸に、小国がならび立つようになっていったのである。
⇒なるほど、武光は、こういう具合に、出雲に焦点を当てる「通説」、と自説との整合性を図ったわけですね。(太田)
貿易や国内の交易のための命懸けの航海にあたるのは、男性である。
紛争が起こったときに、かれらは他の小国の船と戦わざるをえなくなる。
そのため各地の小国に、冒険者たちを上手に指揮する、有力な男性の首長が生まれた。
しかし弥生時代の人びとは、安全と繁栄を神に祈る祭祀を政治や外交より重んじていたと考えてよい。
『魏志倭人伝』は、倭王卑弥呼には夫がおらず、彼女を助けて国を治めた「男弟」がいたと記している。
これは弥生時代の小国で行なわれた、女性が祭礼に、男性が行政にあたる役割分担をあらわしたものであろう。
卑弥呼を「倭王」とする『魏志倭人伝』の書き方からみて、邪馬台国では巫女が男性の首長より上位におかれたと考えてよい。」(96~98)
⇒このあたりも、武光の論述に首肯できます。(太田)
(続く)
武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その17)
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