太田述正コラム#9177(2017.6.25)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その18)>(2017.10.9公開)
「『日本書紀』などにも、男性と女性とがならんで小国の流れを引く一つの地域を治めていたことを示す記述が多い。・・・
<また、>5世紀なかばまでの古墳には、男性1人と女性1人を葬ったものがかなりみられる。
その中には、男性を主、女性を従とするのも、女性を主、男性を従とするものも、男女を同格に葬ったものもある。
⇒具体例の、写真、ないし、図、が添付されていないのが残念です。(太田)
このようなあり方から、5世紀なかば頃までは、かなりの数の地方豪族が、男性と女性がならんで人びとを治める形をとっていたのであろう。
男性が行政を女性が祭祀を担当したとみられるが、男女のどちらをより上位におくかは、豪族によってまちまちであったと考えてよい。
大和朝廷の王家では、比較的早く男性の優位が確立し、男系で王位が継承されるようになったとみられる。
⇒武光は、「弥生人=縄文人」説、私は、「弥生人≠縄文人」説、を採っているわけですが、武光説であれば、弥生化した縄文人中、太田説であれば、弥生人中、戦争に長けていた一族・・当然、男性優位・・中、最も長けていた一族が日本列島の近畿以西を統一してヤマト王権を樹立するに至った、というストーリーになろうかと思います。(太田)
しかし・・・倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめ)<(注45)>のような王家の守り神である大物主神(おおものぬしのかみ)<(注46)>を祭る巫女は、大王の統治に欠かせないものとされていた。」(98~99)
(注45)倭迹迹日百襲姫命。「記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。・・・
『日本書紀』・・・では百襲姫による三輪山伝説・箸墓伝説が記される。これによると、百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%A7%AB%E5%91%BD
(注46)「大神神社の祭神・・・大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)・・・。古事記によれば神武天皇の岳父、綏靖天皇の外祖父にあたる。・・・大物主は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。・・・軍神・国の守護神で<も>あったことがうかがえる。・・・日本酒の造り酒屋では風習として杉玉を軒先に吊るすことがある。これは一つには、酒造りの神でもある大物主の神力が古来スギに宿るとされていたためといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E4%B8%BB (下の[]内も)
「大神神社(おおみわじんじゃ)<は、現在の奈良県桜井市所在の>・・・三輪山そのものを御神体(神体山)としており、・・・本殿をもた<ない。>・・・別称を「三輪明神」・「三輪神社」とも。[大三輪神の記述は記紀初出で、最も古い。大和の三輪山から勧請との記録もなく、記紀ではこの時にはまだ三輪山は「三諸山」と記述されている。このことから地元では日本最古の神社といわれている。]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE
「荒魂(あらたま、あらみたま)・・・は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。勇猛果断、義侠強忍等に関する妙用とされる。これに対し・・・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))・・・は神の優しく平和的な側面であり、仁愛、謙遜等の妙用とされている。・・・この神の御魂の二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E9%AD%82%E3%83%BB%E5%92%8C%E9%AD%82
⇒ここは、武光説であれば、大王家といえども、縄文性の母斑は残していた、太田説であれば、縄文人文化を継受していた、というストーリーになろうかと思います。
なお、今まで気が付かなかったのですが、荒魂=弥生性、和魂=縄文性、と受け止めればよさそうですね。
私の言う、拡大弥生時代の日本人達にとって、既に、日本社会ないし日本人、の二面性は常識であった、というわけです。(太田)
(続く)
武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その18)
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