太田述正コラム#9183(2017.6.28)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その20)>(2017.10.12公開)
「前・・・に述べたように、弥生時代が始まったあと祖霊信仰にたつ農耕神の祭祀が広がっていった。
小国を治める首長が出現すると、この信仰は一つの小国の土地を守る国魂信仰に発展した。
そして3世紀はじめにつくられた大和朝廷で、国魂信仰が新たな展開を迎えることになった。
国魂の神は地方ごとに、大国主命、大国魂神<(注49)>、大己貴命(おおなむちのみこと)<(注50)>、八千戈神(やちほこのかみ)<(注51)>などのさまざまな名前で呼ばれていた。
(注49)おおくにたまのかみ。「やがて,幾つかの国魂を総称した魂が考えられるようになった。これが〈大国魂(おおくにたま)神〉の信仰である。大国魂神は〈大年(おおとし)神の子〉,または〈大国主神〉とも言われている(《古事記》《日本書紀》《古語拾遺》)が,本来は幾つかの国魂の総称,あるいは,最高の国魂と考えられたものであろう。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%AD%82%E7%A5%9E-1059940
(注50)「名義は大いなる国主の意で,天津神(あまつかみ)(高天原の神々)の主神たる天照大神(あまてらすおおかみ)に対して国津神(くにつかみ)(土着の神々)の頭領たる位置をあらわす。大国主にはなお大己貴命(おおなむちのみこと),葦原醜男(あしはらのしこお),八千矛神(やちほこのかみ),顕国玉神(うつしくにたまのかみ)などの別名がある。これはこの神が多くの神格の集成・統合として成った事情にもとづいており,そこからオオクニヌシ神話はかなり多様な要素を含むものとなっている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B7%B1%E8%B2%B4%E5%91%BD-1281568
(注51)「多くの矛の神の意で,大国主神の異名のうちの一つ。武神としての名とみられる。この名は《古事記》にみえ,4首からなる物語的問答歌(〈神語(かむがたり)〉という)の主人公として登場する。」
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そして本来は大和の国魂とされた大物主神(おおものぬしのかみ)<(前出)>が、大和朝廷によってそれまで対等であった各地の国魂の中で最も貴いものとされたのである。
⇒基本的に、「大国主命=大国魂神=大己貴命=八千戈神」=幾つかの国魂<の>総称、というのが通説のようなので、この、「」=(単なる個々の)国魂、としている武光は、どうして自分はそう考えるのか、を説明すべきでした。(太田)
このように、大和朝廷は高い権威を得るためにさまざまな手段を講じた。
その一つが、纏向(まきむく)遺跡<(注52)>の古墳である。
(注52)「寺沢薫は、・・・纒向遺跡の特徴と特異性を6点挙げている。
1.3世紀初めに突然現れた。きわめて計画的集落で、規模も大きい。
2.搬入土器が多く、その搬出地は全国にまたがっている。遺跡規模は日本列島最大であり、市的機能を持っていた。
3.生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な運河が築かれ大規模な都市建設の土木工事が行われている。
4.導水施設と祭祀施設は王権祭祀。王権関連建物。吉備の王墓に起源する弧帯文、特殊器台・壺など。
5.居住空間縁辺に定型化した・・・<ところの、>一般的に、定型化した前方後円墳の始まりとして理解されている・・・箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳。
6.鉄器生産。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1
奈良県桜井市纏向遺跡・・・の発掘の進展によって、大和朝廷の誕生の経緯がしだいに明らかになってきた。
纏向遺跡は200年代はじめに、それまで何もない原野であったところに突然あらわれた巨大な遺跡である。
『日本書紀』などには、旧い時代の王宮が纏向に営まれたことを示す記事がある。
また紀元220年頃に、纏向遺跡で最古の古墳とされる纏向石塚古墳が出現した。
⇒武光自身が220年という早い時点で古墳が出現したとの説に立脚している以上、なおさら、彼は、自分が卑弥呼の墓は古墳ではなかったと判断した根拠を示すべきでした。
実際、「遺跡内に箸墓古墳があり、倭迹迹日百襲姫命(モモソヒメ)の墓との伝承を持つが、これは墳丘長280mにおよぶ・・・最古の・・・巨大前方後円墳である<が、>・・・<この>倭迹迹日百襲姫命<を>邪馬台国の女王・卑弥呼とする<有力>説がある」(上掲)のですからね。(太田)
こういった点からみて、纏向遺跡は最初に大和朝廷の本拠地がおかれた地とされた。
纏向遺跡は当初から、約1平方キロメートルの規模をもっていた。・・・
吉野ヶ里遺跡の約2.5倍の広大な遺跡ということになる。
吉野ヶ里遺跡の人口が5400人程度と推定されているから、纏向遺跡には1万3000人余りの人間が住んでいたと推測できる。
大和朝廷をひらいた最初の大王は、奈良盆地のあちこちの集落から人を集めて、人口1万3000人を超える古代都市をつくり上げたのであろう。
そしてそのような有力な指導者を葬るために、古墳という新たな形式の王家の墓が出現したのであろう。
この古墳は、亡くなった大王を神として祭るために築かれたと考えられている。・・・
王家の人びとは、新たに亡くなった大王の霊魂は王家の祖霊(首長霊)の集団の一員になると考えていた。
そのために、古墳を大王の霊魂の祭祀の場としたのだ。
このような古墳は、前に説明した卑弥呼のための墳丘墓・・・をさらに発展させたものと評価できる。」(104~106)
(続く)
武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その20)
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