太田述正コラム#9185(2017.6.29)
<改めて米独立革命について(第II部)(その6)>(2017.10.13公開)
 「著者は、米国の諸起源についての凱旋主義的説明に関心はない。
 その代わり、彼の核心的諸主張は、この独立革命が平等主義・民主主義諸原則のために戦われた、との観念を慎重にひっくり返す。
 大部分の植民地人達は、独立革命が始まった頃には、英国王を慕っていた。
 語るべき、アメリカ的アイデンティティなど存在せず、英領北米植民地人達が眺めやったところの、北は仏領カナダから南はスペイン領アメリカまで、どこもかしこも、事実上、政治的自治は存在しなかった。
 その一方で、彼らの国王は、他の<地理的意味での>欧州の統治者の誰よりも、彼らに対し、より大きな市民的諸自由を供与していた。
 すなわち、18世紀の多くにおいて、英国の歴代国王達は、選挙による植民地諸議会(assemblies)が、自分達自身の諸事を執り行うことを認めていた。
 しかし、これらの植民地諸議会は、英領北米植民地人達に対して、独立の気風を吹き込むというよりは、彼らに対して、「自由に生まれたイギリス人達」としての地位を、より深く抱懐せしめていた。
 それなのに、どうして、独立のための戦争が起こったのだろうか?
 著者は、英国を、直ちに垂直に落下させることとなる、<英国の>割に合わない勝利から出発する。
 それは、英国がフランスを7年戦争で敗北させたことだ。
 この戦争は、北米では、フレンチ・インディアン戦争として知られており、1754年から63年まで続いたが、今日のトランプ的修辞では、完全な大惨事であったと判明するに至るのだ。
 アメリカの植民地人達は、今日のカナダ、及び、五大湖地域において、フランスを征服したが、英国の政策決定者達は、このアメリカの植民地人達が獲得した西部の諸地に、彼らが入植することを妨げた。
 貧しい農民達がこの大英帝国による諸命令をものともせず、かまわずに、アパラチャ山脈の西側の彼方に宿営地を設けた時、若干のアメリカ原住民の諸部族は、当然のことながら激怒し、カリスマ的なオタワ族(Ottawa)の酋長のポンティアック(Pontiac)<(注6)>の下に結束した。
 (注6)「この人物は実際の名前をオブワンディヤグといい、ポンティアックという名前は<英国>人が呼称ししていたボンディアックがなまったものであるといわれる。
 この人物は1720年に生まれ、オタワ族に属しており、若いうちから酋長<だった>・・・。このオタワ族は未開というわけではなく、フランス人と交易<も>行っていたが、フレンチ・インディアン戦争・・・の結果、居住地域であるニュー・フランスが<英国>・・・の支配下に置かれた<ところ>、<英国人入植者>らはインディアンに対して無理解、かつ軽蔑的であったため・・・、インディアンの反乱[(Pontiac’s Rebellion)]の原因となった。
 そして1761年より戦争の兆しが見え始める。そして1763年にデトロイトなどの砦に攻撃を仕掛け、イギリスはデトロイト砦やピット砦の重要拠点は死守したものの、ほかの8つの砦は占領された。またイギリス人入植者を襲った。<英>軍はこれに対抗し、戦争は1966年に和平条約が結ばれるまで継続した。
 ポンティアック戦争と呼ばれることとなるこの戦争により痛み分けの形となった。
 しかし、1969年にピオリア族(当時はこの辺りにも存在した、現在ではオクラホマに存在する)に殺害され、彼の一生は終わる。」
http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%AF
https://en.wikipedia.org/wiki/Paxton_Boys
 1763年の春、ポンティアックの随従者達は、デトロイト近くの英軍の砦を襲撃し、これが血腥い一連の諸報復の引き金となった。
 1763年の12月のある日、57名の酩酊した自警団員達が平和的な、キリスト教徒たるコネストガ(Conestoga)原住民達の教会での礼拝に殴り込みをかけ、斧で20人の男女達と子供達を死に至らしめた。<(注7)>
 (注7)スコッチ・アイリッシュ系のパクストン・ボーイズ(Paxton Boys)という自警団によって、現在のペンシルヴァニア州中部において、1763年の12月14日と27日の2回にわたって、襲撃が行なわれたもの。(上掲)
(続く)