太田述正コラム#9189(2017.7.1)
<改めて米独立革命について(第II部)(その7)>(2017.10.15公開)
 「英国のロンドンの政策決定者達は、「インディアン達よりも入植者達こそが英帝国の平和に対する最大の脅威を呈している、と結論付けた。」
 その結果、彼らは、植民地人達が危険を冒して越えて進むことができない、アパラチャ山脈連鎖に沿って走る1763年の宣言線(Proclamation Lin)<の設定>、すなわち、双方を引き離す措置、を採った。
 しかし、その諸不満が愛郷的熱情に火をつけたのは、貧しい白人の入植者達<の諸不満>ではなく、金持ちのヴァージニアの奴隷所有者にして7年戦争の帰還兵のジョージ・ワシントン(George Washington)、及び、豊かな出版者にしてやはり奴隷所有者のベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)、<の諸不満>だった。
 彼らは西部の土地を買ってあったのに、今やそこへ行けなくなったと見なした<ことによる諸不満だ>。
 二人とも投機家達であり、自分達自身が西へ移住する意図など持ってはいなかった。
 彼らは、貧しい入植者達からピンハネする形で、不動産を賭けの対象にしたかっただけなのだ。
⇒一般論として、太田コラムで紹介してきた話ではあるけれど、米建国の父達のうちの二人の重鎮を名指しして露骨にその醜さを浮き彫りにしたテイラーに喝采を送りたいですね。(太田)
 しかし、今や、<英国の>王様のおかげで、彼らはそうできなくなったわけだ。
 瞠目すべき明晰さと手練でもって書かれたところの、この本は、この時代についての将来の諸歴史書が比較されることになるであろう、優秀なる模範になることだろう。」(d)
 (3)戦争
 「1775年から1783年までかかった、独立戦争を考える際、我々は、、それが、アメリカ人達と英国人達との間で戦われた、とい考えがちだ。
 しかし、著者は、それは、本当は、我々の最初の「内戦」だった、と主張する。
 植民地人達の20%は、英国に忠実な親英派で、40%が愛郷者達だった、と彼は推定する。
 残りの40%は、「優柔不断な」真ん中に位置する静かな多数派でもって構成されており、戦時における多くの者達同様、忠誠対象を、<適宜、>自身の安全と「隣人達や親戚達との諸関係に立脚」して、選んだ。
 しかも、多くの愛郷者達は、自由を追求するためではなく、恐怖から、革命の大義に自分達自身をコミットさせた。
 戦争が始まった時に、信用をなくした植民地諸議会の代替として出現した「諸安全委員会(committees of safety)」<(注8)>は、忠誠を誓わない者達に、圧倒的な諸ボイコットを課した。
 (注8)元々は、17世紀のイギリス内戦の際に議会側が設けた裏政府のこと。米独立革命の際に、これを植民地人中の愛郷者達側が設けた。マサチューセッツ植民地の場合、ここの安全委員会を各町に設け、やはり他諸植民地でも設けられたところの、通信委員会(committee of correspondence)と監視委員会(committee of inspectionないしobservation)を統制させた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Committees_of_safety_(American_Revolution)
 彼らは、<親英派等を、>投獄し、タールを塗り付け羽で覆った(tarred-and-feathered)<(注9)>。
 (注9)Tarring and feathering。イギリス由来の辱め方法。(下掲では、「欧州」由来としているが、実例2つがどちらもイギリス人がらみのものであることから「イギリス」由来と判断した。)
https://en.wikipedia.org/wiki/Tarring_and_feathering
https://en.wikipedia.org/wiki/Tarring_and_feathering#/media/File:John_Meintz,_punished_during_World_War_I_-_NARA_-_283633_-_restored.jpg ←写真(第一次世界大戦中にドイツ系米国人に対してなされたケース)
 多くの者が、「ヒルズバラ・ペイント(Hillsborough paint)」<(注10)>と呼ばれたものを被った。
 (注10)この言葉の由来や、「実施」状況の調べがつかなかった。
 すなわち、少量の糞が彼らの諸家に投げつけられたのだ。
⇒「ヒルズバラ・ペイント」は置いておいて、「安全委員会」、にしても、「タールを塗り付け羽で覆った」、にしても、イギリス譲りであり、改めて、米独立革命が、イギリス第二次内戦で(も)あったことが分かろうというものです。
 但し。第一次のそれに比して、第二次の一方の当事者達の、私利剥き出しの志の低さには目を覆わしめるものがあります。(太田)
 このどれもが驚くべきことではない。
 「他の諸革命同様、献身的、かつ、組織化された少数派が道の先頭に立ち、他者達に続けと要求し、進もうとしない者達を処罰した」、ということを著者は我々に思い起こさせる。・・・
 愛郷者たる兵士達の妻達や娘達が、戦うべく出かけた者達の、諸店、諸農場、そして、諸奴隷大農場、の後を引き受けた。
 彼女達の人生で初めて、白人の女性達は、政治、諸ボイコットの組織化、そして、街頭諸抗議運動への参加、に係る公的参加者達となった。」(d)
(続く)