太田述正コラム#9195(2017.7.4)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その24)>(2017.10.18公開)
「天照大神を祖先神としたのも、継体天皇の数十年先を見越した企てであった。
⇒天照大神の邦語ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E 前掲
には、全くこれに類した話は出て来ませんし、ネット上で、それ以外では、アマチュア研究者らしい、木下清隆による、「継体天皇の時代になると、<皇女を遣わす形で、>伊勢大神への祭祀が本格的に始まる。」
http://www.vec.gr.jp/mag/445/mag_445.pdf
くらいしか見当たりませんでした。
やはり、武光には、何らかの根拠を示して欲しかったところです。(太田)
王家の祖先神を地方豪族が祭る国魂の神より格の高い神であることが広く受け入れられるようになれば、王家が日本全体の君主であることを正当化できる。
このような発想が、天照大神に仕える高天原の天神(あまつかみ)と国魂の流れをひく国神(くにつかみ)の区別をつくり上げていった。
そうすれば、地方の有力豪族を大王に従う地方官として扱えるようになると継体天皇は考えたのであろう。
一部の有力な地方豪族は継体天皇の時代には、国造<(注55)>の地位を、「交易などの面で大和朝廷から有利な条件を得られる特権」ぐらいに考えていたとみられるからである。
(注55)くにのみやつこ。「大和朝廷の行政区分の1つである国の長を意味し、この国の範囲は令制国整備前の行政区分であるため、はっきりしない。地域の豪族が支配した領域が国として扱われたと考えられる。また定員も1人とは限らず、1つの国に複数の国造がいる場合もあったとされる。朝廷への忠誠度が高い県主とは違い、国主(くにぬし)と言われた有力な豪族が朝廷に帰順して国造に任命され、臣・連・君・公・直などの姓(カバネ)が贈られ、軍事権、裁判権など広い範囲で自治権を認められた。・・・東国の国造のように部民や屯倉の管理なども行ったり、出雲の国造のように神祇を祀り、祭祀で領内を統治するなどしたり、紀国造などのように外交に従事したりした<。>・・・大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職になり、従来の国造の職務は郡司が担当した。また、国造が治めた国は整理・統合、あるいは分割され、令制国に置き換えられた。国造には国造田などが支給され、郡司などを兼任する者もいた。その後、8世紀後半以降には国造はなくなっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%80%A0
地方に対する朝廷の支配が強化される中で、筑紫国造であった磐井(いわい)が朝廷に大掛かりな反乱を起こした(527年)。
このとき継体天皇は大伴金村と物部麁鹿火(あらかい)の率いる軍勢を送って、ようやく反乱を鎮めた。<(注56)>・・・
(注56)「、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした・・・ヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火[と大伴金村]によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡るヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと見られている。」(事実関係は日本書紀による。但し、[]内は古事記による。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E4%BA%95%E3%81%AE%E4%B9%B1
天照大神は、継体天皇が天照大神の祭祀をはじめた時点で「天照」と呼ばれた各地の太陽神と同じような男性の太陽神であったと考えてよい。
斎宮を務める王家の女性は、そのような男性の神の妻として祭祀にあたったのである。
この斎宮の下に、祭祀の実務を担当する男性の役人がおかれていた。
その中心となったのが中臣(なかとみ)氏であった。<(注57)>」(134~136)
(注57)「古代の日本において、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族・・・物部氏とともに仏教受容問題で蘇我氏と対立した。中臣鎌足は645年の大化の改新で活躍し、669年の死に臨んで、藤原姓を賜った。以後鎌足の子孫は藤原氏を名乗ったが、本系は依然として中臣を称し、代々神祇官・伊勢神官など神事・祭祀職を世襲した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E6%B0%8F
「中臣氏の中でも鎌足の子供「不比等」の流れのみが「藤原氏」を称することになった・・・藤原氏系を除く中臣氏及び後にこの一族の多くが「大中臣姓」を賜姓され、永続する・・・この一族は、律令制度の2官八省の内で格式で言えば太政官より上位にあったとされる神祇官のトップを常に握っていた・・・<そして、>伊勢神宮の祭主家・大宮司、鹿島神宮大宮司、香取神宮大宮司、枚岡神社社家、気比神社宮司、平野神社・梅宮神社・吉田神社宮司家、春日大社社家、松尾大社社家など全国にわたる現在も有名かつ繁栄している神社の多くに中臣氏の累孫が営々と関係してきたのである。・・・文化面での有名人は・・・吉田神社・・・の関係者であった、「徒然草」の作者「兼好法師」がいる。・・・最も有名なのは大中臣氏の嫡流である「藤波家」である。また一方伊勢神宮内宮の禰宜職を世襲した「荒木田氏」も中臣氏と同じ流れの神別氏族として有名である。」
http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-23.html
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[藤波孝生と叔父の建のこと]
ここで、突然、藤波孝生と叔父のことが頭を過った。
どちらも故人である。
藤波は、労相や官房長官を務め、リクルート事件で有罪となり、政界を引退した人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B3%A2%E5%AD%9D%E7%94%9F
だが、「生家は、利休饅頭で知られる藤屋窓月堂(三重県伊勢市)」で「俳人としても有名で、孝堂(こうどう)の俳号で多くの俳句を残し、伊勢俳壇神風館20世宗匠もつとめ」(どちらも上掲)、「捜査のために藤波の自宅を訪れた検察関係者は、階段にまでうず堆く積まれた書物を見て、ほんとうにこの人物を起訴すべきなのだろうかと思ったという逸話がある」。
https://facta.co.jp/article/200711048.html
この利休饅頭の由来
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E4%BC%91%E9%A5%85%E9%A0%AD
を読んでも、藤波の生家が中臣氏につながる、或いは、同じ伊勢の荒木田氏につながる、的な話は出て来ないが、藤波孝生の文人ぶりからして、そうであっても不思議はない気がする。
彼とは、私は、たまたま面識がないのだが、私の母方の叔父の故笹山建(旧姓石垣)は、三重県志摩を本拠に真珠養殖業を営んだ地方名望家で、隣接する伊勢出身のこの藤波の有力後援者だった人物であり、私が2001年に参院選(比例区)に出馬した時、彼と私の父母、そして私自身の出身地である、三重県四日市、を地盤とする、民主党の岡田克也衆院議員の地元事務所や伊勢市を地盤とする民主党議員との橋渡し等、三重県内の根回しをやってくれたほか、一時上京してまで、全国(九州から北海道まで)の、自身の学校・仕事・趣味(ハーモニカ)関係の知人・友人達に幅広く声をかけ、精力的に応援してくれた。
更に遡れば、私の少年時代、彼は主に西伊豆で真珠の養殖をやっており、彼の別邸に毎夏のように、1週間単位で海水浴兼避暑に出かけ、お世話になったものだ。
お世話になりっぱなしで、何のお返しもできないうちに、彼が亡くなってしまったのが残念でならない。
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(続く)
武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その24)
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