太田述正コラム#9207(2017.7.10)
<2017.7.8東京オフ会次第(続々)/改めて米独立革命について(第II部)(その8)>(2017.10.24公開)
–2017.7.8東京オフ会次第(続々)–
O:それにしても、豊田議員は、(さんざん秘書達に逃げられた後だったということがあるが、)あの運転していた秘書を見る限り、秘書に恵まれていないな、と思う。
私が立候補した時は、知り合いの伝手で一人、民主党(当時)からの紹介で一人、それぞれ、女性と男性を秘書にしたが、役所時代の内部部局のノンキャリ・・えり抜きが配置される・・と比べて全く遜色がなかった。とりわけ、女性の方は優秀だった。
当選はできなかった私だが、秘書に恵まれる人達ばかりじゃないらしいな。
E:加計問題がまだ続いているが・・。
O:財務省や経産省キャリアだった連中が、この問題で、前川前次官を含め、文科省をぶっ叩いているが、その根底には、文科キャリア官僚に対する侮蔑意識がある。
私は、(彼らが文科省側だけ批判して官邸側を全く批判していないことには呆れてはいるが、)この意識はよく分かる。
防衛庁(当時)には、色んな省庁からキャリアが出向してきており、複数の文科キャリアと一緒に仕事をしたことがあるし、また、係長研修や課長補佐研修等の、官庁横断的な研修の場、や、私的勉強会の場、で、文科キャリアと遊びを交えた付き合いをしたこともあるが、能力、志、とも首を傾げざるをえない人物が多かったからだ。
E:前川前文科次官は、国家公務員試験4番だったと聞いているが・・。
O:朱に交われば赤くなってしまうものさ。
私は、英国の例を踏まえているのだが、だからこそ、キャリアの省庁横断的な一括管理が必要だ、と言っているわけだ。
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–改めて米独立革命について(第II部)(その8)–
(4)タテマエとしての課税問題
「7年戦争の後、財政的かつ領域的に限界を超えてしまった英国は、1763年に、植民地人達のアパラチャ山脈の西側・・そこは原住民達が支配していた・・への入植を禁止することによって、辺境での流血を抑えようとした。
植民地人達は、英国が、自分の白人たる臣民達よりもインディアン達を贔屓している、と抗議した。」(A)
「他方、ボストンやニューヨークといった諸港湾都市では、職人達、労働者達、そして復員兵士達、が、英議会が英領北米諸植民地に課したところの、諸新税の痛みを感じていた。
しかし、彼らを守るためにやってきたのは、「庶民の諸権利を擁護する愛郷者達であるという触れ込みの」、より恵まれていた選良達だった。
これらの、より金持ちの選良達は、各都市の諸新聞を統制しており、英議会が公正な代表抜きで植民地人達に課税した、という観念を、すぐさま、人口に膾炙させることができた。
増税は金食い虫の7年戦争の不可避な結果であった上、それでもなお、それは、英本国人達が払っていた額の3分の2相当でしかなかった、にも関わらずだ。
金持ちの愛郷者たる商人のジョン・ハンコック(John Hancock)は、ボイコットが彼の競争相手達を破滅させることを期待しつつ、密かにボイコット対象の諸商品の輸入を彼自身は続けながら、英本国の諸商品に対するボイコットを奨励さえしたときている。
(注11)1736~93年。「第二次大陸会議および連合会議の議長を務め、マサチューセッツ州の初代知事となった。<米>独立宣言に最初に署名した人物である。・・・<父親を幼い時になくし、>ハーバード大・・・卒業後は叔父のところで働いた。1760年から1764年まで、ハンコックは<英国>に渡り、叔父の造船業の顧客や納入業者との関係を作り上げた。ハンコックが<英国>から戻った直後に叔父が死に、ハンコックは叔父の遺産と事業を引き継ぐことになり、当時のニューイングランドで最も富裕な者となった。・・・ボストンの都市行政委員とマサチューセッツ<植民地>議会議員となったハンコックは、植民地の交易を制限することになる印紙法が彼の事業にも脅威となったので、法の施行に抗議することになった。印紙法は撤廃されたが、他にもタウンゼント諸法などいくつかの法が日用品にまでの課税を義務づけることになった。その結果ハンコックの海運事業が難しくなってきたので、ガラスや鉛、紙、紅茶の密貿易を始めた。1768年、ハンコックの所有する・・・船・・・が<英国>から戻ってきたとき、所得法違反の廉で<英>税関の役人に取り押さえられた。これが原因で積荷を期待していたボストン市民が激高し暴動になった。ハンコックの通常商業貿易と密貿易の収入が<英>当局に対する地域の反抗を金の面で支えていたので、ボストンの人々は「サミュエル・アダムズが文書を(新聞に)ポストし、ジョン・ハンコックがその配達料金を支払う」というジョークを作った。ハンコックは<、やがて、>・・・<英国>支配に対する公的な批判者となった。1774年3月5日、ボストン虐殺事件から4年が経った日に、ハンコックは<英国>を激しく非難する演説を行った。同じ年にハンコックはマサチューセッツ植民地議会の議長に満場一致で選ばれ、その中の安全委員会<(前出)>も主宰した。ハンコックのもとでマサチューセッツ民兵が組織できるようになり、東インド会社によって輸入される紅茶のボイコットが結果的にボストン茶会事件につながった。1775年4月、・・・ハンコックと・・・アダムズは<英>軍の逮捕から逃れるためにボストンを抜け出し、レキシントンのハンコック=クラーク・ハウスに滞在していた。夜中にポール・リビア<(前出)>が二人を起こしにきて、<英>軍が夜明けに到着することを告げた。<こうして、最初の戦闘である、>レキシントン・コンコードの戦いが起こった。」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF
英国寄りの新聞がハンコックの偽善性を指摘した時、愛郷者達の群衆は、すんでのところでこの新聞の発行者をぶっ殺すところだった。」(d)
⇒米建国の父達は、その殆どが、金品の亡者であったことを改めて痛感させられますね。(太田)
(続く)
2017.7.8東京オフ会次第(続々)/改めて米独立革命について(第II部)(その8)
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