太田述正コラム#9211(2017.7.12)
<改めて米独立革命について(第II部)(その9)>(2017.10.26公開)
(5)本音のその1:アメリカ原住民の土地奪取
「フレンチ・インディアン戦争の後の英国の獲得物であったところの、カナダの<一>部分(portion)<であるケベック(Quebec)>でフランスとローマ・カトリック教会の分子(element)が存続し許容されるとした英国の決定は、他の歴史学者達によって言及されることが殆どない事柄なのだが、この戦争の遂行を助けた北米のイギリス人植民者達にとって、征服と併合に対するイラつかされる障壁を生み出した。
ケベックでこそうまくいかなかったけれど、彼らの制覇(domination)への大志は、それに比べて、狂っているほどの成功を収め、独立の後は、新しい諸土地に飢えていて、彼らが殆ど躊躇することなく、猥りに追い出し、屠殺したところの、原住民達に対して甚だしく非同情的な、米国人達の領域的拡大に対するブレーキの役割を英国はもはや果たさなくなった。・・・
恒常化した悲劇は、拡大志向の白人たる米国人達によって強く求められた諸土地を占拠していたところのアメリカ・インディアン達の福祉と諸命そのものに対する、殆ど普遍的な無視だった。
かつて数多かった人々を蹂躙した旧世界の諸病原体によって、既に大量殺害されてしまっており、彼らの伝統的な諸生活様式が、諸、馬、銃、酒、によって、ひっくり返され、作り替えられ、北アメリカ大陸をコントロールすべく互いに闘争した欧州諸大国の諸代理質駒として用いられたところの、アメリカ原住民達は、人種と宗教と温情主義(paternalism)、に藉口して暴虐的な諸戦術を正当化したところの、新しい国<(米国)>の抜け目なくかつ容赦ない市民達による、自分達の追い出しや時々の絶滅、を回避するには、自分達は究極的には無力であることを思い知らされた。
切手収集が趣味だった頃、私は、ジョージ・ロジャース・クラーク(George Rogers Clark)<(注12)>を称える1929年の記念切手を持っていたことを思い出す。
(注12)1752~1818年。「<米>独立戦争の北西部辺境における<植民地民兵>指揮官・・・。クラークの名声の頂点は北西部領土の征服者として歓呼の声に迎えられた時<だ>った。・・・独立戦争が終わると、クラークは・・・8,049エーカー (32.6 km2) の土地の所有を認められた<が、>・・・クラークは、その軍事的な遠征費用などを借金で賄って<おり、>・・・ 数年後に、債権者とその権利を譲り受けた者とが入り込んできて、この古参兵のほとんどすべての資産を奪い取っていった。・・・義兄弟・・・<の家の>居候となった・・・クラークは・・・卒中で亡くなった。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF
彼は、勇敢な兵士であり、かつ、北西準州(Territories)の冒険家だった。
<しかし、>諸米革命<書>は、遥かに英雄らしからぬクラーク<の姿>を暴露しており、彼は、遭遇したアメリカ・インディアン達を熱心に処刑し、「自分は、捕まえることのできた男、女、或いは子供を殺さなかったことはない」、と豪語したものだ。・・・
当時、南カロライナとペンシルヴァニアは、「その死体の年齢、性別に関わらず」、アメリカ原住民の頭皮に、最高1000ドルの諸賞金を提供していた。・・・
それどころではなかった。
練達のインディアン殺害者であった、ディヴィッド・ウィリアムソン(David Williamson)<(注13)>は、モラヴィア人(Moravian)宣教師達に率いられた平和なデラウェア(Delaware)の<インディアンの>村を、[彼の民兵を指揮して、攻撃し、]諸木槌でもってその諸頭蓋骨を粉砕することによって、男28、女29、そして、子供39、の計96人の諸捕虜を屠殺した上で、その頭皮を戦勝記念品として切り取った。
(注13)1752~1814年。米独立戦争時のペンシルヴァニア民兵の大佐。戦後は郡保安官に何期か選出されたが、事業に失敗し、貧困のうちに死んだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/David_Williamson_(Pennsylvania)
この原住民達は、キリスト教の諸讃美歌を唱和しながら死んだ。<(注14)>・・・
(注14)グナーデンフッテン虐殺(Gnadenhutten massacre)=モラヴィアン虐殺( Moravian massacre)。犯人達は、一切訴追も、従って処罰も受けなかったが、若干名は、同族のインディアン達によって、後に暗殺された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Gnadenhutten_massacre
この、少しも珍しくない、白人の、辺境における蛮行に対する反響は皆無だった。」(C)
(続く)
改めて米独立革命について(第II部)(その9)
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