太田述正コラム#9215(2017.7.14)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その29)>(2017.10.28公開)
「6世紀に王家の祭官として成長してきた中臣氏は、大王に祭祀の現場から退いてもらって、中臣氏の主導で王家の太陽神の祭祀を整備していく方針をとっていたのであろう。
中臣氏は紛争を避けるために、中央の有力豪族の祭祀に手をつけなかった。
王家が、「天照大神は日本の最高神である」と唱えても、それはあくまでも王家の中だけのことで、中央の有力豪族が祭る神の権威に手をつけることはなかった。
中臣鎌足がこのような中臣氏の主張を代弁したことによって、中大兄皇子(天智天皇)は中臣氏の敷いた路線に従って、国内の神社に対する統制を用心深くすすめていく方針をとった。
⇒典拠は恐らくないのだろうと思われます。(太田)
天智天皇<(注67)>のあとに立った天武天皇<(注68)>が、それまでの方向を一挙に否定して、天照大神の祭祀をはじめとする朝廷の祭祀の整備を始めた。
(注67)626~672年。天皇:668~672年。「<皇太子当時、>百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・・・を送り返し、百済復興を図った。百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが、・・・661年8月・・・斉明天皇が崩御した。その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制したが、・・・663年8月・・・に白村江の戦いで大敗を喫した後、・・・667年4月・・・に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、・・・668年2月・・・、漸く即位し・・・同母弟・大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、・・・671年1・・・に第一皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、同・・・11月・・・に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。・・・白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。・・・即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。また、皇太子時代の・・・660年<と即位後の>671年・・・に漏刻(水時計)を作って国民に時を知らせた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
(注68)?~686年。天皇:673~686年。「皇后<たる>・・・皇女は後に持統天皇となった。・・・飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される。・・・一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。皇族の諸王が要職を分掌し、これを皇親政治という。・・・八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。・・・天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
⇒「天智天皇は、病がいよいよ深くなった・・・671年・・・10月・・・に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、<天智の>皇后である倭姫王が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った」(上掲)、というのが史実であったとして、大海人皇子による提案は、身の安全を図るための韜晦であったのでしょうが、私の言うところの、最高権威を担うのは女性、最高権力を担うのはその近親者たる男性、なる理念型が大王家(天皇家)の中で当時共有されていたことの現れ、と見ることもできそうです。
大海人皇子の后(後の持統天皇)が、最初から「政治について助言した」(上掲)というのも、天武・持統朝では、一貫して、この皇后/持統天皇が最高権威者であり続けた可能性を示唆するのではないか、とも。
大海人皇子/天武天皇は、とりわけ、かかる理念型の熱心な信奉者であったからこそ、天照大神の日本の最高神化及び女性化を、彼が断行した、とさえ、言えるのではないか、という気が私にはしてきています。(太田)
それは天照大神が最高神であることを中央や地方の豪族に認めさせるためのものであった。・・・
『日本書紀』などは、大海人皇子<(天武天皇)>を天智天皇の弟としている。
しかし大海人皇子は、天智天皇より年長であったともいわれる。
そのためかれが、天智天皇の母方の異父兄である漢(あやの)皇子と同一人物であった可能性もある。<(注69)>・・・
(注69)「天武天皇の出生年について『日本書紀』には記載がないが、天皇の生年を不明にするのは同書で珍しいことではない。前後の天皇では、推古天皇につき死亡時年齢を記し、舒明天皇13年(641年)時点での天智天皇の年齢を記して生年を計算可能にしているのが、むしろ例外的である」(上掲)ことが、このような小論争を生み出している。
日本古代史の研究者の多くは天武天皇のもとで、はじめて中国の唐朝をまねた中央集権が実現したと評価している。」(192~194)
(続く)
武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その29)
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