太田述正コラム#9219(2017.7.16)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その31)>(2017.10.30公開)
⇒「『扶桑略記』(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書<で、>総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された<ところ、>寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされるが、異説もある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91%E7%95%A5%E8%A8%98
という本ですが、著者が、この本の中に、大海皇子が伊勢の太陽神に雷雨が止むことを祈り、それが叶えられ、それが戦勝に繋がったという挿話を載せたのは、蘇我馬子が戦勝を仏像に(?)祈願して戦勝を得たことと対比させる意図があったのではないか、つまりは、戦勝を直接祈願するのならやはり仏教だよと言いたかったのではないか、と想像されるところ、それをそのまま書いた筑紫申真と違って、武光のように、「戦の時の願いが叶ったお礼によるものであった」と書いたことは、この微妙な違いがぼかされてしまうことから、いかがなものかと思います。(太田)
 「大伯皇女のあと、斎宮は途切れることなく伊勢に送り続けられ・・・天武天皇のもとで伊勢における祭祀はしだいに整えられていったと推測できる・・・。・・・
 天武天皇は朝廷の神官という役所で働く中臣氏などの役人を上手につかって、次のような考えを広めっていったのだ。
 「天皇が国内の神々の祭祀に関与することを通じて、すべての人を見守っている」
 さらに、・・・「天照大神がすべての神々を統べる最高神である」という考え方<(前出)>も、皇室以外の豪族たちにも受け入れられるようになっていった。
 これは天照大神を祭る伊勢の多気大神宮を、国内で最も格の高い神社と位置づけるものでもあった。・・・
 天武天皇の次の持統天皇の6年(692)に、「天皇が伊勢、大倭、住吉、紀伊の四か所の大神に奉幣した」と『日本書紀』は記している。
 この時点の伊勢の多気大神宮は、日本の主要な四社の中の第一位とはされていた。
 しかし皇祖神を祭る多気持大神宮一社だけが、特別扱いされていたわけではなかった。
 『大宝律令』(701年)の成立後にようやく、伊勢神宮一社をすべての神社のうえに置く発想が確立した。
 それを示す最初の文献が『続日本紀』の文武3年(699)8月の「伊勢神宮と諸社に南島(薩南諸島)から朝廷に送られた捧げ物を送った」という記事である。
 これは、伊勢神宮の完成の直後のことであった。
 この出来事は、持統天皇のあとを受けて皇位に就いた、天武天皇<(注73)>と持統天皇の孫にあたる文武(もんむ)天皇の治世のことであった。・・・
 (注73)683~707年。天皇:697~707年。「草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。・・・父・草壁が持統天皇3年4月13日(689年5月7日)に亡くなり、同10年7月10日(696年8月13日)には伯父にあたる高市皇子も薨じたため、同11年2月16日(697年3月13日)立太子。文武天皇元年8月1日(697年8月22日)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、同月17日(9月7日)即位の詔を宣した。当時15歳という先例のない若さだったため、持統が<史上>初めて太上天皇[(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)(上皇)]を称し後見役についた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87 ([]内)
⇒上掲のウィキペディアは、水谷千秋の説を援用し、「後の院政形式の始まりである」としていますが、邪馬台国時の理念型における、女性と男性の役割分担の逆転という形で院政の原形が生まれた、と見ることもできそうです。
 なお、前述の私見に基づき、文武天皇もまた、女系天皇でもある、と申し上げておきます。(太田)
 文武天皇のときに、天照大神の神社が滝原から現在の内宮のある地に移された。
 『続日本紀』はそのことを、次のように記している。
 「多気大神宮を渡会郡に遷す」
 これは文武2年(698)12月29日の出来事であった。
 朝廷は伊勢神宮に対する指導力を高めるために、渡会氏の影響力のつよい滝原の地から、有力な豪族がいなかった新たな地に天照大神の祭祀の場を遷したのである。
 そこは、太陽神が降りてくるといわれた鼓ヶ岳の近くに位置していた。
 滝原で祭祀が行なわれたときには渡会氏の手で、神事の整備がすすめられたのであろう。
 しかしそれが一定の成果をあげた時点で、皇室は渡会氏の祭祀に対する必要以上の介入を退けたのである。
 このあと伊勢神宮の最も権威の高い指導者としての斎宮の地位が確立した。
 神祇官(天武天皇のときの神官の後身)で活躍する中臣氏などは、斎宮を補佐する役人とされた。
 そのため中臣氏に近い立場をとる荒木田氏が、しだいに内宮の運営を主導するようになっていった。
 それまでの斎宮は、渡会氏が握る太陽神の祭祀を監督する役目にすぎなかったのだろう。
 このあと渡会氏は、自家が古くから太陽神の祭祀を行なっていた山田の社地に拠り、そこに丹波国の豊受(とようけ)大神を迎えた。
 この神社がやがて外宮となる。
 このあと内宮と外宮とは、どちらを欠くこともできない一体のものとされていった。・・・
 豊受大神は、食物をもたらす豊穣の女神であった。
 「伊勢の二社の女神が、日本の人びとを守っている」とする信仰は、奈良時代に始まり現代まで受け継がれた。
 そしてそれは縄文時代の土偶の祭祀にみられるような、大地の母神の信仰の流れをひくものだと評価できる。
 縄文文化は神道思想の形をとって、日本の文化のそこに存在しつづけたのである。」(197~201)
⇒「佐藤栄作首相が<昭>和42年(1967年)に参拝して以来、現職内閣総理大臣と農林水産大臣が、1月4日の仕事始めに伊勢神宮に参拝するのが慣例」
http://afun7.com/archives/1674.html
 佐藤が首相の時に、建国記念日が制定されており、そのことは佐藤のウィキペディアに載っているけれど、伊勢神宮参拝については載っていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%A0%84%E4%BD%9C
 建国記念日の方は、自民党歴代内閣の懸案事項であり、前任の池田隼人首相の時に大きな進展があったのを引き継いだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%9B%BD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E3%81%AE%E6%97%A5
に過ぎないことから、伊勢神宮参拝の方が重要だと思うのですが、佐藤が参拝を決断した背景についてはよく分かりませんでした。(太田)
(続く)