太田述正コラム#9227(2017.7.20)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その9)>(2017.11.3公開)
「次期大王を田村と定めた推古の意志は明確だったが、その解釈をめぐって厩戸の嫡子(むかひめばらのみこ)である山背側から異議が出、朝廷は紛糾した。
⇒「推古天皇は、・・・崩御した時、継嗣を定めていなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%92%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
というのが通説らしいのに、入江は、自説(?)の根拠を何ら示していません。(太田)
田村が舒明として即位したのはようやく9か月後の西暦629年。
宝(皇極)が舒明大后として承認されたのはさらに1年後の舒明2年である。
男系の血統重視から生じた後宮の采女に至るまでの処女性を絶対とする社会で、離婚歴のある女性を大后に立てるうえでの更なる紛糾があったことはいうまでもない。
伯父・姪の関係ではあるが、舒明38歳、宝37歳。
1歳違いのこの婚姻は、推古が見抜いたとおり能力、棋力ともに大后が大王を上回った。・・・
⇒ここも、あたかも推古がそう「定め」ていたかのように読めますが、「舒明天皇には敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女も妃にいたにも関わらず、敏達天皇の皇曾孫に過ぎず且つ一度婚姻経験のある皇極天皇が皇后になったのを疑問として、天智天皇の生母として後世に「皇后」としての地位を付与されたとする・・・河内祥輔<(注24)>・・・説」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
こそあれ、この入江説(?)もまた、絶対少数説のようです。
(注24)こうちしょうすけ。1943年~。「北海道大学名誉教授、元法政大学文学研究科教授。中世史専攻。・・・東京大学国史学科卒、・・・同大学院修士課程修了、・・・同博士課程単位取得満期退学・・・
武家政権と公家政権を対立する概念として捉える通説を徳川政権及び近代政府における理念上の産物として批判し、古代・中世の政治体制を公家政権・武家政権ともに「朝廷再建運動」を通じて君臣共治の神意に適う国家・朝廷の再生を目指し、その担い手としての自己の正当性確立を目指したとする理論(「朝廷の支配」から「朝廷・幕府体制」への移行)を提示した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E7%A5%A5%E8%BC%94
また、入江が、当時が「処女性を絶対とする社会」としている箇所にはのけ反りました。
この処女性とは、「日本にも処女は三種類ありまして(中略)つまり、全然、男を知らない処女と、過去に男を持つたけれども、現在は処女の生活をして居るものと、それからもう一つは、ある時期だけ処女の生活を保つて居るものと、此三種類であります。」(
折口信夫)
http://www.hs.ipu.ac.jp/files/Umiyama/essay.htm
という意味での処女性ですか、と混ぜっ返したくなります。
この箇所だけで、この本を読み続ける意味はゼロに近い、と言いたくなるところをぐっと堪え、シリーズを再開したばかりなので、何とか続けることにしましょう。
(「男系の血統重視」が誤りである、と私が考えていることは、ここでは繰り返しません。)(太田)
しかし、それは宝個人の特性ではない。
同時代の『日本書紀』には、蝦夷討伐に派遣された朝廷軍が逆襲にあったとき、敗走する将軍をその妻が諫め、勝利に導いたエピソードが記されている。
「酒を酌みて強ひて夫に飲ましむ、而して親ら剣を佩(は)き、十の弓を張りて、女人数十に令して弦を鳴さしむ」と。・・・
それ<ら>は男性が長く支配してきた政治形態の変革をうながす萌芽のようにみえる。・・・」(37~40)
⇒ここも、入江さん、冗談がお上手で、と言いたくなりますね。
「<男は>女の力を信じ<、>・・・女の力を忌み怖れ<てい>たの<であり、>・・・祭祀・祈祷の宗教上の行為は、・・・肝要なる部分がことごとく婦人の管轄であった。」(柳田國男)(上掲)というのですから、当時も、日本の政治は、「女性が・・・<権威を担う形で>支配」する形態のままであった、というだけのことなのでしょうから・・。(太田)
(続く)
入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その9)
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