太田述正コラム#9231(2017.7.22)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その10)>(2017.11.5公開)
「この時代の宝には、<支那の>東夷から脱した維新の国という推古の遺業を果そうとする意図がうかがわれる。
朝貢使の来朝に対する難波の大郡(おおこおり)と三韓の賓館の改装、最初の遣唐使の派遣。
この盛んなありさまを知ってであろう。
舒明3(631)年には百済の義慈<(注25)>が幼ない王子・・・を人質として送ってきた。
(注25)義慈王(599~660年。国王:641~660年)。「632年に太子に立てられ、641年に先代の武王の死により即位し、唐からは「柱国・帯方郡王・百済王」に封ぜられた。・・・日本に朝貢もしており、王子豊璋王と禅広王(善光王)を人質として倭国に滞在させていた。・・・
高句麗と共同し新羅を攻めていたが、逆に唐・新羅同盟を成立させてしまい、660年に唐に滅ぼされた。・・・
百済滅亡後、子の一人豊璋が倭国の軍事援助を受け、復興戦争を行うが、白村江の戦いで大敗して失敗に終わった。・・・
善光の子孫は百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜り、日本の貴族として続いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E6%85%88%E7%8E%8B
百済王一族は、「東北地方の経営と征夷事業に関わり、平安時代中期まで中級貴族として存続した。・・・平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が百済系渡来氏族の和氏出身であったため天皇の外戚とみなされ厚遇を受けた。一族の娘を桓武天皇・嵯峨天皇らの後宮の宮人とし、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E7%8E%8B%E6%B0%8F
ただし、この年、義慈はまだ太子にはなっておらず『三国史記』「百済本紀」にも記事はない。
勿論唐の冊封体制下にある百済としては、倭国にも人質を差し出すなどは秘すべきことではある。
しかしその危険を冒すにたるだけの魅力が推古朝を継いだこの新政権ににあったのであろう。」(40~41)
⇒これぞ牽強付会ってやつです。
義慈の父親の武王(580?~641年。国王:600~641年)(注26)は、「最初、新羅と高句麗と戦っていたが、隋の煬帝の高句麗征伐(隋の高句麗遠征)に参加せず、二面外交を行い、高句麗と和解し、新羅を盛んに攻め立てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%8E%8B_(%E7%99%BE%E6%B8%88)
という、食えない戦略を遂行した人物ですが、彼が、義慈の子供達である、自分の孫達を日本に送ったのは、新羅もまた日本に朝貢していたことから、新羅を滅ぼすためには、日本に邪魔されないよう、日本に対して新羅以上の「朝貢」を行っておく必要がある、と判断しただけだ、と思われるからです。
(注26)「武王は607年及び608年に、隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文を提出し<ている。>・・・隋が滅びて唐が興ると621年に朝貢を果たし、624年に<帯方郡王・百済王>に冊封されている。」(上掲)
当時の日本政府もまた、そう見ていたことでしょう。↓
「『日本書紀』には、隣国に攻められ窮地に陥った百済に対して日本が援軍を派兵した記録や、領土を奪われた百済に任那の一部を割いて与えた記録、さらには百済が日本に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く記されている<が、>「百済は是多反覆しき国なり。道路の間すらも尚詐」と<も>記されて<いる>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
なお、百済だけでなく、新羅も日本に朝貢していたことについては、下掲参照。↓
「<支那>の『隋書』にも、「新羅・百済は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、ならびにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。」という記述があ<るし、>・・・<高句麗の>広開土王碑も倭について・・・「百殘■■新羅を破り以って臣民と為す」と記しており、この「百殘」を百済と見なし、辛卯年(391年)に倭に服属していたとする見解もある。」(上掲)(太田)
(続く)
入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その10)
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