太田述正コラム#9237(2017.7.25)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その12)>(2017.11.8公開)
「642年以高句麗にクーデタがおきた。
泉蓋蘇文<(前出)>が王を殺害、軍事独裁体制を完成すると、この下剋上の動きが藩属国に波及することを危惧した唐の太宗の三度にわたる高句麗攻撃をきっかけに、唐・新羅対高句麗・百済の対立の図式が完成し、朝鮮半島はあらたな動乱期に入っていく。
この海の彼方から吹いてくる変革の嵐は、・・・ヤマトの青年たちに刺激をあたえた。・・・
皇極3(644)年に入る頃は、入鹿<を泉蓋蘇文に準え、そ>の伯母・・・と舒明の第一子・大市大兄を次期大王に、という空気<が>たしかなものになりつつあった。
その一方で、律令による中央集権国家を志す人々の動きがあった。
小野妹子の遣隋使団に同行して隋・唐の王朝交代を目のあたりに見、32年間の留学中にその政治を学んできた高向玄理<(注28)>を中心としたグループ–皇極の同母弟・軽<(後の孝徳天皇)>をはじめ蘇我本流に密かな反感を抱く蘇我倉山田石川麻呂<(注29)>などで、その末席には少年の域を脱したばかりの大海人(おおしあま)<(後の天武天皇)>も、時代の風向きだけを読むことに長けた中臣鎌足も連なっていたのであろう。」(46~47)
(注28)たかむこのくろまろ(?~654年)。「遣隋使・小野妹子に同行する留学生として聖徳太子が選んだと伝えられており、推古天皇16年(608年)に南淵請安や旻らとともに隋へ留学する。なお、留学中の推古天皇26年(618年)には、隋が滅亡し唐が建国されている。舒明天皇12年(640年)に30年以上にわたる留学を終えて、南淵請安や百済・新羅の朝貢使とともに新羅経由で帰国し<た>・・・。
大化元年(645年)の<乙已の変>後、旻とともに新政府の国博士に任じられる。大化2年(646年)遣新羅使として新羅に赴き、新羅から任那への調を廃止させる代わりに、新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめ、翌647年(大化3年)に新羅王子・金春秋に伴われて帰国し、金春秋は人質として日本に留まることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%90%91%E7%8E%84%E7%90%86
(注29)そがのくらやまだのいしかわまろ/そがのくらのやまだのいしかわのまろ(?~649年)。「蘇我馬子の子である蘇我倉麻呂の子であり、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟に当たる。・・・改新政府において右大臣に任命される。大化5年(649年)、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告され、孝徳天皇により派遣された穂積咋が兵を率いて山田寺を包囲したため、長男の興志ら妻子と共に山田寺で自害した。なお、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされている。
中大兄皇子の妃となった娘遠智娘は、大田皇女(伊勢斎宮となった大来皇女、大津皇子の母)、鸕野讚良皇女(後の持統天皇)、建皇子(夭逝)を、またもう一人の娘姪娘は御名部皇女(御名部内親王。高市皇子妃。長屋王の母)と阿閇皇女(後の元明天皇。草壁皇子妃)を産んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E5%80%89%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E9%BA%BB%E5%91%82
⇒私は、大化の改新の起点となる、645年4月8日の乙已の変
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3%E3%81%AE%E5%A4%89
の背景として、東アジア情勢の変化を指摘する入江の見立ては間違っていないと思います。
但し、その直接の契機となったのは、642年の高句麗でのクーデタではなく、このクーデタを受けて、644年11月に始まった、唐の高句麗第1次侵攻(至645年9月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E3%81%AE%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E5%87%BA%E5%85%B5
の衝撃であり、唐の(日本が自国の勢力圏と見ていた朝鮮半島南部、ひいては日本本土、への)脅威に対抗するためには、唐の制度を取り入れて国の「近代化」を図る必要がある、という機運が高まったからではないでしょうか。
もっとも、この私の説は、644年2月5日に乙已の変が生起したとする説(乙已の変のウィキペディア前掲)が正しければ成り立ちませんが・・。(太田)
(続く)
入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その12)
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