太田述正コラム#9245(2017.7.29)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その16)>(2017.11.12公開)
「新羅<で>・・・第28代の・・・王<として>・・・選ばれたのは真徳<(注40)だったが、彼女は、>、・・・善徳の父・・・の従兄妹<であり>、善徳とは俗にいう又従兄弟の関係になる。
(注40)?~654年。在位:647~654年。入江は真徳の系図を「三国史記』新羅本紀に拠<っているが、>・・・『旧唐書』では先代の善徳女王の妹と記されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%BE%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B
⇒真徳([Jindeok。?~647年。在位:632~647年])の英語ウィキペディアは邦語ウィキペディアよりもはるかに分量が少なく、日本への言及も全くない
https://en.wikipedia.org/wiki/Jindeok_of_Silla ([]内も)
ことから、韓国史学者達の女性蔑視、嫌日の姿勢が反映されているのか、と勘繰ったところ、善徳(〈Seondeok〉)の英語ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%BE%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B (〈〉内も)については、邦語ウィキペディアとほぼ分量が同じだったので、そうではなさそうです。
上掲の英語ウィキペディアには、当時の新羅は父系相続制と母系相続制が並存していて、家長(heads of families)には女性が就いていた、ことから、善徳(、ということは、真徳についても(太田)、そ)の国王就任は驚くべきことではない、とあります。
なお、善徳には王配を含め三人の配偶者がいたが子はなく、真徳には配偶者がいた形跡がなく、子もいなかった、ということ(それぞれの邦語ウィキペディア)も覚えておきたい事柄です。(太田)
<これは、>父系を重視する王位継承の点からみてかなり距離のある血縁といえる。・・・
⇒入江は、善徳のところで、「注40」の末尾で私が記した程度のことを補足すべきでしたし、また、完成が『旧唐書』945年であるのに対し『三国史記』は1145年と200年も遅く、かつまた、後者には、「編纂者・・・が新羅王室に連なる門閥貴族であったため、また、高麗が新羅から正統を受け継いだことを顕彰するために、新羅寄りの記述が多い」、という偏重があるとされ、真徳の次の国王で三韓統一を成し遂げたところの、武烈王を持ち上げたいがために真徳を矮小化した可能性が否定できないことから、私としては、入江とは異なり、「真徳=善徳妹」説を採りたいところです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A8%98
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A8%98 ([]内)(太田)
真徳が28代に推された理由<は>「容姿も資質もともに豊かで麗しかった。身長は7尺もあり、手をおろすと膝の下にまで達した」と『三国史記』が記すような特殊な身体的な魅力であろう。・・・
⇒これは、『三国史記』が、「真徳=善徳妹」説をあえて採らなかったために、ひねり出さざるをえなかったところの、理由になっていない理由であろう、と私は見ています。(太田)
<ここで少し時間を戻すが、646年に、その前年に始まったばかりの日本の>孝徳朝・・・は<、>面従腹背をくりかえす新羅との関係に決着をつけ、新たに宗属関係を結ぶために特使を派遣していた。
その使者となったのが、第一回遣隋留学生となり32年に及ぶ<隋と>唐での研鑽を積み、新羅経由で帰国を果した高向玄理<(前出)>である。
おそらく新羅にも相当な人脈があったのであろう。
・・・<彼は、>『日本書紀』<によれば、>・・・舒明10年<(638年)>以来絶えている新羅からの人質を求めるかわりに、新羅が曲がりなりにも果たしてきた任那の貢の代納を廃止する<、と伝えた>。
つまり新羅による任那の併吞を黙認しようというのである。・・・
ヤマトの新政権からのこの唐突な要求は、当時、<新羅の>国政をあずかる<立場にあった>●<(田偏に比)>曇にとって、唐の第三の提案<(前出)>に重なる、あるいはそれ以上の女性王を戴くゆえの危機と映ったのではないだろうか。
●曇のクーデタの直接的原因は、大化改新政権からのこの問題にあったと思われる。」(60~63)
⇒ここは、珍しく、入江によって、鋭い推測がなされているではないでしょうか。(太田)
(続く)
入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その16)
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