太田述正コラム#9249(2017.7.31)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その18)>(2017.11.14公開)
「649年五月<に>死亡した・・・太宗<の後を継いだ、唐の>・・・高宗<(注43)とのあいだで順調な滑り出しをみた真徳は、ヤマト朝廷にも人質に続いて、朝貢使を送る。・・・
(注43)628~683年。皇帝:649~683年。「政治において主導権を発揮することはなく、最初は外戚の長孫氏、後に皇后の武氏に実権を握られ続けた皇帝であった。・・・
663年、白村江の戦いで倭・百済遺民連合軍に勝利する。・・・668年、新羅と共同(唐・新羅の同盟)して、隋以来敵対関係にあった高句麗を滅亡させる(唐の高句麗出兵)。こうして新羅を除く朝鮮半島を版図に収め、安東都護府を設置、唐の最大版図を獲得したが、676年に新羅が朝鮮半島全土を統一(唐・新羅戦争)すると、朝鮮半島経営を放棄した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%97_(%E5%94%90)
⇒高宗の死後、皇后の武氏が唐を乗っ取り、690年に武周を建てたため、618年に建国された唐は、早くも、一旦滅びます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
要するに、唐は初期から、不安定な王朝であったこと、いや、それどころか、人口的に見て、後漢が滅亡してから、隋唐の時代を含め、支那は、北宋の時代まで続く、超長期の戦乱時代であった、
http://www.geocities.jp/cato1963/jinkou996.html (コラム#9017)
ということを銘記しておきましょう。(太田)
しかし、・・・白雉2(651)年、早くもこの倭国との関係に溝がうがたれる。・・・
<新羅は、>前々年、官吏の衣冠を唐風に改めたばかり<だったところ、>使者<がその出で立ちでやってきたからだ。・・・>
<これは、>左大臣巨勢徳陀古(とこだこ)<(注44)>の目には許しがたい新羅の裏切りと映った。
(注44)「名は徳太・徳陀・徳陀子・徳太古・・・徳多・・・とも記される。・・・
巨勢氏は蘇我氏と親密な関係にあり、徳多も蘇我入鹿の側近として皇極天皇2年(643年)の山背大兄王征討時には軍の指揮を執っている。ところが、大化元年(645年)に中大兄皇子によって入鹿が暗殺される(乙巳の変)と、直ちに皇子に降伏して蘇我氏討伐に参加し、復讐を図る蘇我氏遺臣の漢直らを説得して兵を引かせた。・・・
大化5年(649年)阿倍内麻呂の死去後に空位となっていた左大臣に任じられて大紫に昇進する。中大兄皇子と前任の左右両大臣は晩年において路線対立があり、前任の右大臣・蘇我倉山田石川麻呂は謀反の疑いで自殺に追い込まれているが、徳多は右大臣・大伴長徳とともに中大兄皇子や中臣鎌足との協調を図りながら政権を運営した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E5%BE%B3%E5%A4%9A
「巨勢氏(こせうじ)は、・・・6世紀以降、朝鮮半島との外交・軍事に従事することによって台頭した新興豪族・・・平安時代初め、初代の蔵人頭に任じられて中納言に昇った<者>を輩出した後、公卿に昇った者はいない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E6%B0%8F
軍事力に訴えるぞという威嚇が実行されることはなかった<(注45)>が、新羅の死者はその任務を果たすことなく、筑紫から追い返される。
(注45)威嚇どころか、「新羅と唐が結ぶことを危惧した<徳陀古>は<、実際に、>先に新羅を攻めるように[中大兄皇子に]進言したが、採用されなかった」もの。(上掲、及び
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ([]内))
なお、「この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている<ところだが、>・・・白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたの<は>、この情勢に対応しようとしたものと考えられている」(上掲)
⇒さすがに、確信などありませんが、私の見立てはこうです。↓
「本格的な縄文モード入りは、8世紀末以降の平安時代を待たなければならないが、7世紀央は、4世紀末に、百済、新羅、等を属国化していた状況で高句麗の好太王と戦った頃とは様変わりであって、日本は、既に縄文モード化が進展しつつあった。
だからこそ、当時の日本政府は、(百済や)新羅による日本領の任那浸食にもさして目くじらを立てなかった。
その新羅において、推古天皇(在位、593~628年)の例にあたかも倣ったかのように、632年に善徳女王が即位したこと、そして、皇極天皇の在位(642~645年)を挟んで、647年に真徳女王が王位を継いだこと、にも、日本政府は、好印象を抱き、そのことを、新羅の唐接近(の噂?)よりも重視していた。
(これは、真徳女王自身の考えと合致していた可能性が高い。
だからこそ、彼女は、日本がどう受け止めるかを余り考えずして、官吏の衣冠の唐風化を実施できたし、かつ、この衣冠による日本への使節派遣を了承した、としか考えられないからだ。)
だから、孝謙天皇や中大兄皇子は、徳陀古の上出の進言を却下した。
(結果論だが、この時の徳陀古の危惧は的中し、660年に唐・新羅連合軍が百済を滅ぼし、その後に百済復興を目指した日本は、672年、白村江の戦いに敗北し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E3%83%BB%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%90%8C%E7%9B%9F
朝鮮半島から完全撤退することになる。)
徳陀古は、巨勢氏なるがゆえに、朝鮮半島・支那情勢には、天皇や皇子よりは通じていたからこそ、この進言を行いえたものの、新羅の官吏の衣冠の唐風化の情報すら・・日本国としてはもとより、巨勢氏としても、新羅朝廷内にとまでは言わないとしても、新羅国内に、しかるべき諜報源を確保していなかったと思われるが・・掴んでいなかった、という程度の通じ方であったことから、天皇や皇子を説得できなかった。」(太田)
しかし真徳はしたたかであった。
3年4月、4年6月と新羅は何事もなかったように朝貢を続けている。
おそらくヤマトへの朝貢使の衣服だけは旧に戻したのであろう。」(69~
(続く)
入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その18)
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