太田述正コラム#9251(2017.8.1)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その19)>(2017.11.15公開)
「春秋<ら>が<、再び、>敢えて女性である真徳を推したのはなぜか。
年齢と言い資質といい善徳とは対照的な二人の共通点が一つだけある。
・・・直径の後継者をもたない、という共通点だ。・・・
金春秋には嫡庶併せて7人の男子がある。
その成人を待って次々と国政の要所を固めていく<ことで、自分が王位を継承してからの地位を盤石なものにしようとしたのではないか。> 」(71)
⇒私の見立ては異なります。
後漢末以来の、三国時代、南北時代、すぐに滅びた統一王朝の隋、そして、唐初、という、長期にわたった混乱時代から、当時、支那がようやく抜け出したよう観がありました。↓
「建国の時点では、依然として<支那>の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。勲功を立てた李世民は、626年にクーデターを起こすと高祖の長男で皇太子の李建成を殺害し実権を握った(玄武門の変)。高祖はその後退位して、<同年、>李世民が第2代の皇帝(太宗)となる。・・・
627年、元号を貞観と改元し・・・<後世、貞観の治と呼ばれることとなる、諸>施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなった。・・・
<太宗は、>630年・・・には突厥の・・・可汗を捕虜とした。これにより突厥は崩壊し、・・・唐の皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
この支那の長期混乱期のおかげで、支那という最大の脅威を基本的に免れていた高句麗は、その間、百済、新羅征服を試み続けてきており、新羅は、百済と二度(366~世紀末、433年~533年)にわたって羅済同盟を結び、適宜日本の支援も受けてこれに対抗した時代があった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E6%B8%88%E5%90%8C%E7%9B%9F
ものの、その後は百済と敵対関係に入ったことから、新羅は、この唐と結ぶことで、高句麗と百済を征服して朝鮮半島の統一を成し遂げ、脅威の根絶を図る、という起死回生の大戦略を描いた、と私は考えているのです。
というか、それ以外に、当時の新羅の窮状を打開する方策は見当たらなかった、と言った方がいいかもしれません。↓
「<新羅の真平王は、>625年には高句麗の無道を訴え出た。しかしながら唐からは高句麗との和解を勧められるばかりであって、積極的な支援を得られたわけではなかった。626年には高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況となり、三国間での新羅の劣勢はいよいよ深刻なものとなった。・・・
こうした・・・状況下、<真平王は>632年1月に死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B9%B3%E7%8E%8B
この戦略を遂行するにあたっての問題は、第二次羅済同盟が崩れてから、百済が、「新羅への対抗のために殊更に倭(ヤマト王権)との連携を図っ<てきてい>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E7%8E%8B_(%E7%99%BE%E6%B8%88)
ことでした。
そこで、新羅は、日本の百済観が、「百済は是多反覆しき国なり。道路の間すらも尚詐く」(前出)的なものであることを承知していたところ、疎遠になっていた日本とよりを戻すために、日本で久方ぶりに女性天皇が出現したことに倣った、と日本に思わせ、懐柔する、という、究極の布石として、支那ではおよそありえず、朝鮮半島においても極めて稀な、王族の女性(、しかも、日本におけると同様、男系で中継ぎあることが明白な、すなわち、配偶者がいないか、いても、非王族との間の子供がいない、女性)、を、最初が善徳、次が真徳という形で、本人達の了解を得て王位に就かせた、というのが、(穿ち過ぎであるとの批判は甘受しますが、)私の見立てなのです。(太田)
(続く)
入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その19)
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