太田述正コラム#0485(2004.9.27)
<米国とユダヤ人(その1)>
1 ユダヤ人の到来
現在ユダヤ人の町とも言われるニューヨークにユダヤ人が初めて到着したのは偶然によってでした。
ブラジルを一時オランダが(異端審問のあった)ポルトガルから奪取していた時、ユダヤ人が多数ブラジルに移住したのですが、再びブラジルがポルトガル領に戻った時点で、ユダヤ人は一斉にオランダに再移住しようとしました。
そのうち、海賊の餌食となった船に乗船していて無一文になったユダヤ人23人が、1654年に当時オランダ領だったニュー・アムステルダム(1664年に、イギリス領となったことに伴いニューヨークと改称)に避難したのです。
その地のオランダ人総督は、「ユダヤ人にキリスト教徒は到底競争しても勝てない」として彼らを追い払おうとしたのですが、アムステルダムを本社とするオランダの西インド会社は、大株主にユダヤ人が多かったこともあり、翌1655年に総督に命じ、これらユダヤ人の定住を認めさせます。
それまで北米大陸には既に数百人のユダヤ人がやってきていましたが、これが米国へのユダヤ人定着の始まりとされています(注1)。
(注1)スペインの異端審問制度は頭の古い連中の最後のあがきであり、これからはユダヤ人は隆盛をきわめるだろう、また北米のインディアンはユダヤ人の失われた氏族だ、と記した書物を、ほぼ同じ時期の1650年に上梓したアムステルダムの住人こそ、ユダヤ人のイギリス復帰のきっかけを1655年につくったマナセ(Manasseh ben Israel。コラム#480参照)その人だった。
ユダヤ人の来訪は、北米イギリス植民地に大きなインパクトを与えました。
コットン(John Cotton。1585??1652年)(注2)はピューリタニズムを更に徹底し、ユダヤ教のメシア待望論(Messianism)に立脚した神政政府の樹立を提唱しましたし、ロジャー・ウィリアムス(Roger Williams。1603???1634か1635年)(注3)はユダヤ人との並存のためにも、政治と宗教の分離を実現しなければならないと主張しました(注4)。
このようにユダヤ人の来訪は、米国においてキリスト教原理主義とリベラリズム(コラム#456、458、470等)・・それぞれの問題点がタブーの押しつけと放縦の放任・・という両極端の思潮がそれぞれ確立する契機となったのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.csmonitor.com/2004/0915/p11s02-lire.html(9月15日アクセス)、及びhttp://www.nytimes.com/2004/09/24/arts/design/24ROTH.html?8hpib=&pagewanted=print&position=(9月25日アクセス)による。)
(注2)ケンブリッジ大学卒。長くイギリス・リンカーンシャーのボストンで教区牧師を務めたが国教会にあきたらず、ピューリタンとして北米マサチューセッツに一団を率いて移住した。ボストン市の名前の由来にはここにある。(http://www.infoplease.com/ce6/people/A0813751.html。9月27日アクセス)
(注3)ケンブリッジ大学卒。信教の自由を求めてマサチューセッツに渡る。後にピューリタンが巣くうマサチューセッツを脱出し、インディアンと親しく交わり、プロヴィデンス(Providence)に後にロードアイランド州となる新植民地を興す。彼は1644年にイギリス議会にプロヴィデンス植民地における政教分離を求める請願を提出し、認められ、植民地憲章に「<住民は>特定の宗教を押しつけられることはない」との一節を明記した。(http://www.rogerwilliams.org/biography.htm(9月27日アクセス)も参照した)
(注4)連邦憲法が制定されるまでの州憲法の中では、1777年のニューヨーク州の憲法のみが信教の自由を謳っていた。
(続く)