太田述正コラム#9255(2017.8.3)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その21)>(2017.11.17公開)
 「西暦668年春正月、43歳の中大兄はついに念願の即位を果たした。
 それは間人の死から3年の大王位の空白の時間–太子とも執政ともつかぬ中大兄と、太子弟とも共同統治者ともつかぬ大海人とのあいだでの、主として大海人の地位をめぐる探り合いの長さとみえた。」(108)
⇒そんな悠長な話ではなく、中大兄は、663年8月の白村江の戦いでの大敗北以降、665年3月の間人の死
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E4%BA%BA%E7%9A%87%E5%A5%B3 前掲
を挟んで、664年から665年にかけて対馬、壱岐、筑紫等の防備を強化
https://books.google.co.jp/books?id=y85vKlHfwuYC&pg=PA52&lpg=PA52&dq=%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF%EF%BC%9B665%E5%B9%B4&source=bl&ots=D-EGZBpuJu&sig=yArFu7ohbioYwBM9U9KRqttWTAg&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiPou_XxrrVAhWBF5QKHWlYB6AQ6AEIODAC#v=onepage&q=%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF%EF%BC%9B665%E5%B9%B4&f=false
するとともに、それ以降も含め、「北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城(例えば、筑前にあった大野城)や連絡施設を築くとともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置して、防備を固め<、更には、>・・・琵琶湖に面しており、陸上・湖上に東山道や北陸道の諸国へ向かう交通路が通じており、西方へも交通の便が良いため<、恐らく安全保障上の見地から、667年3月に、>・・・都を[飛鳥から]近江大津へ移し」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%AE%AE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%AE%AE ([]内)
また、間人が亡くなった665年には、唐の戦後処理の使節として唐使が来日し、その3か月後にこの唐使をおくるために送唐客使(実質遣唐使)を派遣し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲
といった具合に、唐の侵攻に備えるとともにそれを回避するための、防衛態勢の構築等に追われており、だからこそ、間人の大王としての葬儀も恐らく行えず、また、自らの即位も先送りせざるをえなかった、と、一旦私は書いたのです。
 しかし、ここで、「唐使<唐の戦後処理の使節として唐使が来日し」たのは何のためだったのかが気になり出し、調べているうちに、中村修也(注50)による、「天智朝–敗戦処理政府の実態」(2013年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%BF%AE%E4%B9%9F
file:///R:/TEMP/XAPPTEMP.DIR/BKK0002841-1.pdf
に遭遇し、刮目しました。
 (注50)1959年~。筑波大学第一学群人文学類卒業。1989年同大学院歴史・人類学研究科博士課程単位取得修了、同大博士。京都市歴史資料館勤務を経て、文教大学教育学部助教授、教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%BF%AE%E4%B9%9F
http://ci.nii.ac.jp/search?range=0&author=%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%BF%AE%E4%B9%9F&nrid=&count=100&sortorder=2&type=1 ←論文数の多さに注目。
 中村は、『日本書紀』、『資治通鑑』、『善隣国宝記』、等を読み解き、663年の白村江での壊滅的敗北で、日本は、本国を含めて残存兵力が殆ど亡くなった状態になり、唐軍に対して恐らく降伏した上で、引き揚げ船での敗残兵の帰国を認められ、その翌年の664年には、唐から日本占領支配の開始を告げる使者が来日し、更にその翌年の665年には、唐の別の使者が、200数十人を率いて来日し、新羅・百済・眈羅・倭国(日本)の使者を引き連れて唐に戻り、泰山において会祠させているところ、これは、日本の唐への正式の降伏式であろう、としています。
 そして、「北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城(例えば、筑前にあった大野城)や連絡施設を築<かせる>とともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置」させたのは、唐占領軍が、もう一つの敗残国の百済の官人達を使ってやらせた、と推測し、666年の、近江大津という、防衛の要衝とは考えにくく、しかも狭隘な地への遷都は、中大兄が、飛鳥を唐の使者に明け渡せとの命令を受けて、やむなく疎開したものであろう、とも推測しています。
 中村が挙げている諸根拠の一つを紹介すれば、日本書紀の666年6月の記事に、筑紫都督府という言葉・・一般には誤記とされている・・が登場することです。
 『旧唐書』に、滅亡後の当時の百済と後に滅亡することとなる高句麗を占領統治するために、唐が、それぞれの国の旧国土を5つずつに分けて、それぞれに都督府・・合計10都督府・・を置いた旨の記述がある、というのです。
 確かに、日本でこのような惨めな状況が続いていたのだとすれば、中大兄がなかなか大王に即位するタイミングを掴めなかったのは当然でしょうね。
 そして、668年に今度は高句麗を滅亡させた唐は、日本占領政策を本格化させ、669年の時点では、唐の占領軍は2000名体制になっていた、とも。
 更に、670年には、日本において、史上初めて全国にわたる戸籍・・「庚午年籍」・・が作成されているところ、これも、徴税目的を持ったところの、唐占領軍の命を受けて中大兄が実施させられたのだろう、と。
 ちなみに、その後の展開ですが、671年に、高句麗の移民達と共に新羅が唐に反旗を翻し、恐らくは、この事態に対応するために唐の占領軍はその時点で日本から引き揚げ、更に、新羅が678年までに、唐軍を朝鮮半島から完全に撤退させてくれたおかげで、日本は、671年に唐の占領下から脱し、その後も、20世紀に至るまで、再び他国に占領されることがなかった、というわけです。
 (672年の壬申の乱で、わずかな地方豪族軍を率いた大海人が、大友皇子が率いた政府軍に勝利を収めることができたのは、占領軍撤退直後で、まだ日本政府軍が弱体化したままであったからだ、と。)
 以上、非常に説得力がある、と思いましたね。(太田)
(続く)