太田述正コラム#9257(2017.8.4)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その22)>(2017.11.18公開)
 「<天武天皇(注51)>は、<即位後、自分の>・・・母は斉明女帝であるが、父は斉明の初婚の相手「高向王」であり、舒明との再婚後に生れた中大兄とは異父兄弟にあたること、つまり家系としては前王朝とは異なる家系に属することを明らかにした。・・・
 (注51)?~686年。称制:672年、在位:673~686年。「飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
⇒そんな話を裏付ける典拠は存在しないはずです。
 「天武<は、>・・・673年・・・に来着した耽羅の使者に対して、・・・即位祝賀の使者は受けるが、前天皇への弔喪使は受けないと詔した。天武天皇は壬申の乱によって「新たに天下を平けて、初めて即位」したと告げ、天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとした。」という記録はあります(上掲)が・・。
 また、入江は、「小林恵子(こばやしやすこ)<の、>・・・、<皇極=斉明の初婚の相手の>高向王を孝徳期の高向臣、つまり高向(漢人)玄理(たかむこのあやひとくろまろ。玄理は黒麻呂とも記す)、そして漢皇子を天武天皇とみなす説」
http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter2-3.html
に拠っていますが、そう記すべきでしたし、そもそも、大海人が、中大兄の同父母弟ではなく、異父同母兄であるとする小林説は絶対少数説です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
 小林は、「1936年生まれ 岡山大学文学科東洋史専攻卒業」
http://www.torashichi.sakura.ne.jp/yaridama30kobayasiyasuko.html
ですが、歴史学者とは到底言えない上、トンデモ説を連発している人物のようであり(上掲)、本件でも入江は(、同じ女性ということで親近感があるのかもしれませんが、)小林説になど拠るべきではありませんでした。(太田)
 この中国の伝統的な王朝交代の思想・・・<である>易姓革命・・・を打ち出したことで、大海人は王位簒奪の悪名からも、卑父という出自の負い目からも、見事にのがれたことになる。・・・
⇒『日本書紀』の「斉明記」は高向王を用明天皇の孫とし、父母を明らかにしていない
http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter2-3.html
のですから、百歩譲って、大海人=漢皇子、だとしても、父母のどちらかは用明天皇の子なのであり、仮に、父の方が用明天皇の子であった場合、卑父ではないことになります。(太田)
 <この>大海人の大王としての弱点を・・・<彼の大后である>鸕野讚良(持統)<(注52)>・・・の<、>斉明の孫、天智の女(むすめ)という出自が補っている・・・。・・・」(122、124)
 (注52)持統天皇(鸕野讚良(うののさらら、うののささら)は諱。645~703年。称制:686年、在位:690~697年)。
 「657年・・・13歳で叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。斉明7年(661年)には、夫とともに天皇に随行し、九州まで行った。天智元年(662年)に筑紫国の娜大津で鸕野讃良皇女は草壁皇子を産み、翌年に大田皇女が大津皇子を産んだ。天智6年(667年)以前に大田皇女が亡くなったので、鸕野讃良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い人になった。
 天智天皇10年(671年)、大海人皇子が政争を避けて吉野に隠棲したとき、草壁皇子を連れて従った。・・・大海人皇子の妻のうち、吉野まで従ったのは鸕野讃良皇女だけではなかったかとされる。
 大海人皇子は翌年に決起して壬申の乱を起こした。皇女は草壁皇子<ら>を連れて、夫に従い美濃国に向けた脱出の強行軍を行った。疲労のため大海人一行と別れて伊勢国桑名にとどまったが、『日本書紀』には大海人皇子と「ともに謀を定め」たとあり、乱の計画に与ったことが知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
⇒大海人(天武)が、「天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとした」・・「日本ではじめて天皇を称したのは、天武天皇だとする説が有力である。」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
のは、中村修也が言うところの、斉明天皇死去後の中大兄が日本の権力の担い手であった時期に、日本が唐の占領下に置かれた、つまりは、日本が一旦滅亡した、という屈辱の記憶を克服するためだった、と私は解するに至っています。
 もとより、「王位簒奪の悪名から・・・のがれ」るためには、鸕野讚良(持統)の存在は大きかったことでしょうが・・。(太田)
(続く)