太田述正コラム#9261(2017.8.6)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その24)>(2017.11.20公開)
「目まぐるしく新しい事業が発表される。
主な柱は、」この国の歴史を編むための「帝紀」と古代の記録を編纂すること。
これまで部分的に施工されてきた法令をふくめて「律令」という大きな体形にまとめることだ。・・・
朱鳥元(686)年・・・天武は世を去った。・・・
・・・大津<皇子(注58)>が、その同志30余人とともに、皇太子・草壁の暗殺を企てたという理由で逮捕されたのは、天武の<死から一か月後であり、>その翌日・・・<縊死した>。・・・
(注58)「大津皇子は草壁皇子より1歳年下で、母の身分は草壁皇子と同じであった。立ち居振る舞いと言葉遣いが優れ、天武天皇に愛され、才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、と『日本書紀』は大津皇子を描くが、草壁皇子に対しては何の賛辞も記さない。草壁皇子の血統を擁護する政権下で書かれた『日本書紀』の扱いがこうなので、諸学者のうちに2人の能力差を疑う者はいない。2人の母は姉妹であって、大津皇子は早くに母を失ったのに対し、草壁皇子の母は存命で皇后に立って後ろ盾になっていたところが違っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
天武没後3年目・・・<今度はこの>草壁<が>28歳の生を閉じた。・・・
<その>僅か2か月後・・・持統は・・・「律令」のうち、刑法にあたる「律」を除き、行政法というべき『令一部二十二巻』を各行政機関に班布した。
<もっとも、>「浄御原令」の条文は<現存>しない。・・・
ユニーク<なのは、第一に、>・・・負担の中心を「正丁」<と>するのは<唐や新羅>の「丁」と同じであるが、その補助的役割を<青少年だけでなく、儒教的精神に照らせばあるまじきことだが、65歳までの老人にまで負わせている点である。>・・・
<そして、第二に、>唐や新羅のように一家族を一戸とする自然戸ではなく、一戸に正丁一兵士を含むことを原則とする人為的家族を編成している点だ。
その狙いは、各戸の労働力を均等にすることで収税や兵士差点<(注59)>など行政上の便宜と同時に、一戸三丁の労働力によって差点された兵士への糧食を負担しなければならないとの経済的破綻を防ぐ点にある。
(注59)「律令制において、労役・軍役に取る人を指定すること。古代には「点」「点ずる」だけでこの意味としたが、現代の歴史学では差点ということが多い。」
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%AE%E7%82%B9
それは同時「寄口(きこう)」<(注60)>という破綻戸の救済をかねてもいる。・・・
(注60)「「よりく」「よせく」とも読む。日本の律令制時代に,没落した自由民が,個人または家族ぐるみで,同姓または異姓の戸籍に組入れられ,寄住者の形態をとったもの。古代の郷戸 (ごうこ) の重要な労働源となったと思われ,その隷属性は次第に増していった。 」
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%84%E5%8F%A3-50260
郷戸は、「古代の社会構成単位。令制では 50戸を1里 (郷) とし,行政組織上の末端にあり,租税負担の単位であった。規模は,戸主以下数人から 100人以上にも及ぶものがある。郷戸は戸主の単なる血縁者だけの集団ではなく,これに寄口の家族,家人,奴婢などの非血縁者を含む大家族の場合が多い。この大家族のなかには房戸 (ぼうこ) といって血縁関係の強い 10人前後の小家族が含まれており,奈良時代の中頃からこれが賦課の単位となったという説もある。平安時代中期以後は,郷戸の実体は失われた。 」
https://kotobank.jp/word/%E9%83%B7%E6%88%B8-61985#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8
⇒入江は、班田収授法が大化の改新時ではなく、この時点で発足したという立場のようですが、これは通説です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E7%94%B0%E5%8F%8E%E6%8E%88%E6%B3%95
この班田収授法は、テュルク系の元遊牧民たる鮮卑の拓跋氏の支那政権群・・支那占領政権群と言ってもよい・・であるところの、北魏→東魏→西魏→隋→唐、と受け継がれた均田制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%87%E7%94%B0%E5%88%B6
を継受したもの(注61)であり、農業時代における戦時共産主義的総動員体制、といった趣があります。(太田)、
(注61)「唐の均田制では・・・戸口(成員)と田地が一体化した経営体である「戸」が社会に存在している状況を前提として、実際の均田は戸単位の田地の調整によって実施されていた。更に収授の手続・実務は現地の県令が行い、州単位で余剰の田地が発生した場合のみ、中央(尚書省)に報告して判断を仰いだ。これに対して日本の班田制では・・・「戸」も造籍と班田の結果として形成される組織であった。そして何よりも・・・中央による統制が強く働いた制度であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E7%94%B0%E5%8F%8E%E6%8E%88%E6%B3%95 前掲
<690年、>持統は登極の日を迎えた<(注62)>。・・・
(注62)「鸕野讃良は草壁皇子の子(つまり鸕野讃良の孫にあたる)軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承を望むが、軽皇子は幼く(当時7歳)当面は皇太子に立てることもはばかられた。こうした理由から鸕野讃良は自ら天皇に即位することにした。・・・
即位の後、大赦を行い、天皇は大規模な人事交代を行い、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命した。ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになった。」(上掲)
即位の<際の>・・・寿詞・・・の儀式に<おいて、>持統は現人神に通じる現御神となり天皇と称することがあきらかになった。」(129、133~134、136~140)
⇒入江は、律令制/班田収授法や現人神/天皇、について、あたかも、その全てが持統自身の発意であったかのように描いていますが、これらは、(持統の貢献も否定はしませんが、)主として天武に帰せられるべきでしょう。↓
「天武天皇は日本古来の神の祭りを重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げた。・・・その努力は各地の伝統的な祭祀をそのまま保存することではなく、天照大神を祖とする天皇家との関係に各地の神を位置づけ、体系化して取り込むことにあり、究極的には天皇権力の強化に向けられていた。それぞれの地元で祀られていた各地の神社・祭祀は保護と引き換えに国家の管理に服し、古代の国家神道が形成された。その際、天武天皇は伊勢神宮を特別に重視し、この神社が日本の最高の神社とされる道筋をつけた。・・・
「田村<圓澄(注63)>は天照大神は『金光明経』<(下出)>をふまえて天武天皇が作ったのではないかという(『伊勢神宮の成立』118-127頁)。
(注63)1917~2013年。日本史学者、仏教史学者。九大国史卒、京大修士、九大博士、九大、熊本大教授、九大名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E5%9C%93%E6%BE%84
天皇の仏教保護も手厚いものがあった。即位前には出家して吉野に退いた経歴を持つ。即位後、2年(673年)3月に川原寺で一切経書写の事業を起こした。5年(676年)には使者を全国に派遣して『金光明経』と『仁王経』を説かせ、8年(679年)には倭京の24寺と宮中で『金光明経』を説かせた。『金光明経』は、国王が天の子であり、生まれたときから守護され、人民を統治する資格を得ていると記すもので、天照大神の裔による現人神思想と軌を一にするものであった。本人・家族の救済ではなく、護国を目的とした事業である。・・・天皇個人が仏教に求めたのは、皇后と自身の病気治癒で、仏教の自我否定や利他の思想を実践しようとするものではなかった。・・・
天皇の宗教観には道教の要素が色濃く出ている。「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神、つまり仙人の上位にいる存在であったとの説がある。八色の姓の最上位は真人であり、天皇自身の和風諡号は天渟中原瀛真人という。瀛州は東海に浮かぶ神山の一つ、真人は仙人の上位階級で、天皇も道教の最高神である。天皇が得意だった天文遁甲は、道教的な技能である。葬られた八角墳は、東西南北に北東・北西・南東・南西を加えた八紘を指すもので、これも道教的な方角観である。
道教への関心は天武天皇だけのものではなく、母の斉明天皇に顕著であり、天武没後も続く。天武天皇の、そして日本の道教は、神道と分かちがたく融合しており、独立には存在していない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
天武によって、これらの大改革がなされたゆえんについて、私は、以下のように考えるに至っています。↓
「西晋滅亡以来273年、黄巾の乱以来と考えると実に405年の長きにわたった<支那の>分裂時代が」、漢人に比してより好戦的な鮮卑、の支那占領王朝たる隋による支那再統一の形で「終結した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
ことに、ヤマト政権は大変な危機意識を抱き、希薄化しつつあった、自国の弥生性を回復すべく、隋、ついで、唐、に遣隋使/遣唐使を派遣し、隋/唐の情報を収集すると共にその戦時共産制的総動員体制の継受を図ろうとしたものの、遅々として進まず、大化の改新によってもこの試みはさして加速化できなかったところ、中大兄/天智期に白村江の戦いに惨敗し、一時的とはいえ、唐に占領されるところとなり、いまだその衝撃冷めやらぬ時に権力を掌握した天武は、大王独裁制を敷き、それを契機に、諸王(豪族達)の首座的な大王の呼称を廃止して豪族達を睥睨する天皇という呼称に変え、それを正当化する、現人神イデオロギーを、神道、仏教、及び道教、を駆使して作り上げ、かかるイデオロギーに沿った公的歴史書を編纂させると共に、唐から継受した、戦時共産主義的総動員体制の一挙構築を図った。
(続く)
入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その24)
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