太田述正コラム#9265(2017.8.8)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その26)>(2017.11.22公開)
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[大伴部博麻挿話と中村修也説]
「日本書紀の持統4年(690年)の項に以下の主旨の記述がある。
持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻<(注67)>に対して、「百済救援の役でその方は唐の抑留捕虜とされた。
(注67)おおともべのはかま。「斉明天皇(皇極天皇)7年(661年)、新羅の攻撃によって滅亡した百済を再興すべく派遣された(白村江の戦い)軍の一員として渡航するが、唐軍によって捕らえられて長安へ送られた。長安には遣唐使でその頃は捕虜になっていた<四人(後出)>・・・らがいた。
天智天皇3年(664年)、唐が日本侵略を企てているという知らせを聞いた博麻は、元宝<(後出)>に相談し、自らの身を奴隷として売って・・・四人の帰国資金とした。四人は天智天皇10年(671年)に対馬に到着し、唐の計画を太宰府に伝えた。博麻は異国の地に留まることを余儀なくされ、唐軍に捕らえられてから実に30年近くが経過した持統天皇4年(690年)に顔見知りの人(唐の人か?)に連れられて日本に帰国した。
持統天皇はその愛国心を讃えて博麻を務大肆従七位下に任じ、絹を四匹(一匹 = 四丈)、綿を十屯、布を三十端、稲を千束、水田を四町与えた。また、子孫三代にわたっての税の免除を約束し、勅語を送った(「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」)。この勅語は「愛国」という単語の語源となったものであり、天皇から一般個人に向けられた最初で最後の勅語である。
第二次世界大戦時の日本で博麻は愛国心の象徴的存在として崇められ、各地で喧伝された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E9%83%A8%E5%8D%9A%E9%BA%BB
その後、[土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝児(ゆげのむらじげんぽうじ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ]
の子<(?)>の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。
その時その方は富杼らに『私を奴隷に売り、その金で帰朝し奏上してほしい』と言った。
そのため、・・・富杼らは日本へ帰り奏上できた<(注68)>が、その方はひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。
(注68)『日本書紀』によれば、彼らは、天智10年(671年)11月2日に、唐国の使節・・・600人、護衛の・・・1400人、合わせて2,000人が、47隻の船に乗って、比知島<(?)>に停泊している、「現在、我々の人船は多数であり、突然やって来ると、恐らく対馬の防人は、驚いて戦いになるだろう。そこで<我々>を遣して、予め少しだけ来朝する意向を示し申します」と奏上した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E5%A4%9C%E9%BA%BB
自分は、その方が朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。」と詔して、土地などの褒美を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
⇒四人は、日本との連絡役に使うべく唐が同船させてきたものであり、大伴部博麻は無意味な自己犠牲をした・・人身売買の代金は何に使われた?・・ことになることはさておき、この四人に、わざわざ上陸の先ぶれをさせた唐軍は、どうして、日本本土に、その後、(逐次)上陸を行わなかったのだろうか。
いや、そもそも、当時、朝鮮半島及びその周辺において、唐軍は、下掲のように、危機的状況にあった。↓
「670年3月、高句麗遺民軍と新羅軍が鴨緑江を渡り唐軍を攻撃し、戦争が始まった。また、・・・
新羅は、百済地域の唐軍も攻撃し・・・671年には・・・百済<全>域を占領した。671年10月、百済に向かっていた・・・唐の水軍が、黄海で新羅の水軍に敗れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E3%83%BB%E6%96%B0%E7%BE%85%E6%88%A6%E4%BA%89
こんな尻に火が付いていた時に、日本に向けて、2000名もの役人・兵士達を乗せた船団を派遣する余裕など、唐軍には、全くなかったはずだ。
恐らく、中村修也は、本当は、この時、それまで日本を占領していた唐軍2000人が引き揚げたのを、『日本書紀』執筆者が、やってきたが上陸しなかった(引き返した)、と史実を歪曲して記した・・その際、あえて、辻褄の合わぬ挿話を挿入した・・、と判断したのだろう。(太田)
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(続く)
入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その26)
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