太田述正コラム#9299(2017.8.25)
<進化論と米北部(その2)>(2017.12.8公開)
2 進化論と米北部
 (1)社会進化論
 米国におけるダーウィンの影響となると、歴史オタク達は、金ピカの時代(Gilded Age)<(コラム#1776)>の社会進化論(social darwinism)<(コラム#1730、5249)>、進化論裁判(Scopes Monkey Trial)<(コラム#588、6361、7886)>、及び、<進化論という>科学の教育を巡る現代の諸戦い、のことを思う可能性が高い。」(A)
 (注1)「社会進化論は19世紀のハーバート・スペンサーに帰せられる。思想史的に見れば、目的論的自然観そのものは古代ギリシア以来近代に至るまで<地理的意味での(太田)欧州>には古くから見られる。しかし、人間社会が進化する、あるいは自然が変化するという発想はなかった。 しかしラマルクやダーウィンが進化論を唱え、スペンサーの時代にはそれまでの自然観が変わり始めていた。スペンサーは進化を自然(宇宙、生物)のみならず、人間の社会、文化、宗教をも貫く第一原理であると考えた。
 スペンサーは進化を一から多への単純から複雑への変化と考えた。自然は一定した気温でなく寒冷と温暖を作り、平坦な地面でなく山や谷を作り、一つの季節でなく四季を作る。社会も単純な家内工業から複雑化して行き機械工業へと変化する。<大英>帝国が分裂して<米国>が出来る。芸術作品も宗教の形態も何もかもすべて単純から複雑への変化として捉えるのだが、単に雑多になるのではなくより大きなレベルでは秩序をなすと考えるのである。未開から文明への変化は単純から複雑への変化の一つである。その複雑さ、多様性の極致こそが人類社会の到達点であり目指すべき理想の社会である、と考えられた(ホイッグ史観)。従って、こうした社会観に立つあるべき国家像は、自由主義的国家である。このような考え方が当時の啓蒙主義的な気風のなかで広く受け入れられた。
 社会進化論はスペンサーの自由主義的なものから変質し、適者生存・優勝劣敗という発想から強者の論理となり、帝国主義国による侵略や植民地化を正当化する論理になったとされる。
 ・・・<広義の社会進化論者たる>カール・マルクス<(1818~1883年)>はダーウィンに進化論が唯物史観の着想に寄与したとして資本論の第一巻を献本している。マルクスは、あくまで社会進化論が資本主義の存続を唱う点と一線を画し、資本主義自体が淘汰されると説いた。
 <また、やはり広義の社会進化論者たる、>エルンスト・ヘッケルは<白人至上主義を、>・・・ ゴルトンは・・・優生学を提唱した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96
 ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer。1820~1903年)・「イギリスの哲学者、社会学者、倫理学者。」無学歴。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC
 エルンスト・ハインリッヒ・フィリップ・アウグスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel。1834~1919年)。「ドイツの生物学者、哲学者・・・<生物学者としては、>「個体発生は系統発生を反復する」という「反復説」(Recapitulation theory)という独自の発生理論を唱えた。この説は、修正を受けながらも、今も、発生学の一翼を担っている。・・・」[しかし、ダーウィンの人類単一種説に異論を唱え、白人種が人類中至上であると主張し、ナチスの人種主義の濫觴となったとされる。独ヴュルツブルク大で植物学を学び、医師としてキャリアを開始。]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB
https://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_Haeckel ([]内)
 フランシス・ゴルトン(Sir Francis Galton。1822~1911年)。「イギリスの人類学者、統計学者、探検家、・・・遺伝学者<。>・・・チャールズ・ダーウィンは<母方の>従兄にあたる。・・・1883年に優生学<(eugenics)>という言葉を<世界で>初めて用いた」。ケンブリッジ大(数学)卒。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3
⇒広狭の社会進化論について、大急ぎで振り返ってみたのですが、「社会進化論」の説明の中にさりげなく「(ホイッグ史観)」と入れた、日本人ウィキペディアンは慧眼です。
 イギリス独特のホイッグ史観には進歩主義的側面とアングロサクソン(とりわけ七王国)時代への復古的側面が並存している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%B0%E5%8F%B2%E8%A6%B3
ところ、スペンサーは、単に、このホイッグ史観に進化論的味付けを行ったにとどまる、と私は見ているのに対し、マルクスは、ホイッグ史観における復古先を、原始共産制であると見たところの、狩猟採集社会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%88%B6
、にまで遡らせることによって、ホイッグ史観に内包されているアングロサクソン文明至上主義の超克に成功し、意図せずして、人間主義に立脚する日本文明至上主義への道を切り開いた、というのが、恐らくは毛沢東及びそれ以降の中共当局、そして、勿論のことながら私、の見方であるわけです。(太田)
(続く)