太田述正コラム#9341(2017.9.15)
<アングロサクソンと仏教–米国篇(その4)>(2017.12.29公開)
(2)人間の退化
「自然淘汰は、人間達を、セックスとか食べ物とか地位、から引き出す愉楽を過大視しがちな、不安で思い込みの激しい生き物達にした。
⇒この本は、仏教を科学的に説明するという触れ込みらしいのに、人間が進化ならぬ退化したなどという、科学的根拠のないことを主張するとは、呆れます。(太田)
我々は、また、身内優先主義(tribalism)と他者達について過度に短兵急な諸判断、に耽るようになったし、自分達の重要性と効能性を慢性的に誇張するようにもなった。
これらの一連の不幸な諸特性は我々の先祖達を彼らの諸遺伝子をより受け渡していき易くしたものの、不幸なことに、苦悩と生存<適性>とは完全に両立可能だったのだ。
我々が、自然淘汰が巧みに工作したという諸思い込みに閉じ込められている限り、苦悩が人間の経験を規定(define)することだろう。
我々は、押し寄せる諸感情の賢明ならざる諸促しに従い、理由もなく違邦人達を悪魔視し、我々の諸食欲を満足させるために環境から略奪しつつ、我々を不満足状態に留める移ろい易い諸愉楽を追い掛け続けることだろう。
⇒わずか1万年そこそこで人間が進化や退化するわけがない、人間は変わっていないけれど、人間の環境が変わったことが人間を堕落させた、と考えた方が自然でしょう。
その環境の変化とは、農業時代の到来による余剰の発生である、と、私は、かねてより指摘してきたところです。
そう考えないと、日本人の大部分(=人間主義者=悟りを開いている人々)とその他の人間達とは、全く同じ人間ではないことになり、その他の人間達は、退化を逆行させる進化を遂げない限り、人間主義者にはなれないことになってしまいます。(太田)
それでも、なお、人間の苦境が極めて悲惨なものとなっていると思わない者のために、、著者は、我々の窮地(predicament)を、自然淘汰が、ロボットの絶対的支配者達(overlords)の役割を演じるものとして、映画、『マトリックス(The Matrix)』<(注1)>の中で劇化されたところの、奴隷化された思い込みの状態と比較することさえ行う。
(注1)1999年の米国映画。「現実の世界はコンピュータの反乱によって人間社会が崩壊し、人間の大部分はコンピュータの動力源として培養されていた<ところ、>・・・人類の抵抗軍の一員となった<主人公>は、・・・<この現実を人間達に気付かせないために作られた>仮想空間での身体の使い方や、拳法などの戦闘技術を習得<した上で、>・・・仮想空間と<この>現実を行き来しながら、人類をコンピュータの支配から解放する戦いに身を投じていく。」というストーリー。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
<そして、>レジスタンスの最善の形態は、弾丸群をかわしたりバレーのような空中での殴り合いを行ったりすることではなく、毎日、クッションの上に座って、自分の息の呼と吸に意識を集中させることだ、と。
どれほど、瞑想が、<欧米において、>完璧なまでに世俗化され、かつ、主流になったかを示す一文の中で、著者は、「『マトリックス』から逃れたいのなら、仏教の実践と哲学は強力な希望を提供する」、と主張する。」(A)
⇒ここでも、再度、農業化社会到来以降の、人間の大部分の苦悩は、自らの内(退化した遺伝子)から来ているのではなく、外(余剰)から来ている、と、私は考えていることを強調しておきたいと思います。
そもそも、念的瞑想だけで、一体全体、どうして、人間が進化を遂げることができるのか、という問いに、著者達はどう答えるつもりなのでしょうね。(太田)
(続く)
アングロサクソンと仏教–米国篇(その4)
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