太田述正コラム#9383(2017.10.6)
<アングロサクソンと仏教–米国篇(その23)>(2018.1.19公開)
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[鈴木大拙のこと]
蔵書をチェックしてみたところ、何と、『近代日本思想大系〈12〉鈴木大拙集』を発見できなかった。
しかし、その背文字まで頭の中に浮かぶ、ということは、『近代日本思想大系』中の何冊かが蔵書中に存在するので、そのうちのどれかを買った折に、本屋でこの本も手に取ってみたところ、本文中で記したような感想を抱き、結局、買うのを止めたのだろうな、と一旦は思った。
その一方で、蔵書中に、(こちらについては全く忘れていたが、)鈴木大拙『無心といふこと』(角川文庫 1955年。原著は1939年)があることに気付いた。
この際と思って、この本をパラパラめくってみた。
以下、その感想を記す。
この本は、臨済宗信徒の大拙が、(浄土真宗の)東本願寺の信徒達に対して行った講演録である(3頁)ことから、私としては、少なくとも当時頃までは、日本の禅宗系と浄土宗系との間に、同じ仏教徒、という以上の、同じ宗派・・私の言うところの、鎌倉仏教(人間主義教)・・信徒としての「同志意識」があったと思いたいところだ。
さて、大拙は、その中で、「『無心』と云うことが、仏教思想の中心で、又、東洋精神文化の枢軸をなして居るものなのである。西洋・・・には『無心』がな<いのだ。>」(3頁)(旧漢字、旧かなづかいは改めた(以下同じ))と言っている。
この主張はツッコミどころが何か所かあるが、目を瞑って先に進むとして、『無心』は、前出の『霊性的自覚』、すなわち自らの本来的人間主義性の自覚、に到達するための手段と解することができるところ、この講演(本)の中で、座禅・・大拙にとってはサマタ瞑想・・にも念仏にも触れた箇所がなさそうであることから、逆に言えば、大拙は、『無心』に到達するための手段は、座禅や念仏を含めた様々なものがある、という認識であった、とも解することができそうだ。
ところで、この講演(本)の中で、大拙は、「無心<は>本能に還るということ」(176頁)とも言っているので、『霊性』は人間の本能であるわけだが、『霊性』=『人間主義性』、であるとまでは言っていないので、今度は、「鈴木大拙語録」というサイト
http://meigennooukoku.net/blog-entry-4191.html
にあたってみた。
そうしたら、そこに、以下のような言葉が並んでいた。
「エスキモー人<(=狩猟採集社会人(太田))>の集団生活というものには、個人主義とか私有財産など云う概念がないと云うのです。一人が持って来たものは、みんなで分ける、みんなで食べる。一人だけで大事な物をこっそりと持って居るなどということがなくて、一つの集団に属したものとなって居る<(=狩猟採集社会は人間主義社会だった(太田))」
「<そんな社会では、>自分の物もないし、人のものということもないので、その生活様式は本当に共産主義の生活である<(=マルクスの理想社会であるところの、共産主義社会は、狩猟採集社会的な社会(太田))>」
「<このような>原始生活に教えられる所は、必要以外のものは絶対に何も要らないということ<(人間主義社会はエコ社会でもある(太田))>」
「宗教生活<(=世界の多くの宗教(太田))>にも原始生活の面影を宿したところがある<(=人間主義的なものを希求・追求しているものが多い(太田))」
すなわち、大拙が、人間の本能(本性)は人間主義性であって、この人間主義性を回復・維持させるものが『無心』である、と考えていたことは明らかだろう。
次に問題になるのは、大拙が、米国、ひいては欧米等、の人々に、彼らの人間主義性を回復・維持させる『無心』に到達する手段として、あえて座禅を紹介しなかった(本文)・・もちろん、念仏も紹介しなかったはず・・のであるとすれば、一体、彼は、いかなる手段を推奨したのか、だ。
私は、その回答を、更に別のサイト
https://books.google.co.jp/books?id=B8Y05-w4fyQC&pg=PA190&lpg=PA190&dq=%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99+%E5%90%8D%E8%A8%80&source=bl&ots=e0rekSgPtI&sig=rmIcGICReO2LLmbBr_Uw_et11wk&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiu1vGL5NvWAhUCoZQKHWWtCPo4ChDoAQhPMAc#v=onepage&q=%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99%20%E5%90%8D%E8%A8%80&f=false
で見つけた。
彼は、「自分が・・・<他人の言動や他人が作り出したものや自然(太田)>の中に自分より以上のものを感ずると、自分というものがなくなる<(=『無心』になる(太田))。そのなくなったところから自分というものがある<(=自分の人間主義性が維持・回復される(太田))>ということになる。そこにありがたい気分がわくのである<(=人間主義者は幸せだ(太田))>。」と言っているのだ。
どうやら、大拙が、「茶道や俳句」を米国人達に紹介した(本文)のは、彼らが日本にまでやってきて、その大部分が人間主義者たる日本人達と接するのは大変だから、その代わりに、かかる日本人達が作り出したものである、「茶道や俳句」を米国人達に紹介し、それに接させることで、彼らを『無心』に到達させようと目論んだ、ということのようだ。
しかし、その結果は、残念ながら、米国人達のごくごく一部の知識人しか『無心』に到達させることができず、殆ど成果を挙げることができなかったわけだ。
それはそれとして、何となくお分かりいただけると思うが、私の人間主義論や仏教論は、和辻哲郎の「人間(じんかん)」概念を援用して、大拙の主張を言い換えているだけだ、とも言えるのであって、これには驚いた。
こうなると、元に戻って、やはり、私は、『近代日本思想大系〈12〉鈴木大拙集』を購読しており、(この本を紛失しながらも、)当時は、十分咀嚼ができなかった大拙の主張について、(その主張自体は忘れながらも、)潜在意識の中で咀嚼が続けられ、長年月の後に、ようやく、私自身の言葉で、その主張を表現できるようになった、という可能性が大だ。
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(続く)
アングロサクソンと仏教–米国篇(その23)
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