太田述正コラム#9393(2017.10.11)
<アングロサクソンと仏教–米国篇(その28)>(2018.1.24公開)
(7)一書評子による総括
「米国人の頭の中では、仏教の約束は、あなたが逃走と<同時に>関与ができる、ということだ。
「一日10分で啓蒙へ」といった類のスローガンが、現在の世代を鼓吹してきた結果、想像を絶する大勢のパートタイム瞑想者達が出現した。
(その中の一人が私自身だ。
ジョゼフ・ゴールドステイン(Joseph Goldstein)<(注31)>という、70何歳かの念的瞑想の先生・・彼は、シティー・カレッジ(City College)<(注32)>名誉教授としての穏やかで気難しい声を持っている・・による、録音された諸瞑想の指南に従って、私の両脚は蓮の花の態勢をとるには硬すぎるのでそれを装わざるをえず、私の瞑想をあらゆる意味で不十分なものにしているが・・。)
(注31)1944年~。南伝仏教の紹介を始め、やがて、南伝、チベット、禅、の各仏教の統合的枠組みを創造する試みを行うようになり現在に至る。コロンビア大卒。平和部隊の一員としてタイに派遣され仏教に関心を抱き、インドで仏教の瞑想を実践した後、1974年から念的瞑想の普及活動に従事。
https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Goldstein_(writer)
(注32)ニューヨーク市立大学シティカレッジ (City College of The City University of New York) は、「<米>ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタンにある公立総合大学である。アメリカで最も古い公立大学の一つ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B8
「単に座っているだけではなく、何かやれ」、というのが、米国人が懇望するところだ。
仏教はと言えば、あなたは、単に座っているだけで何かをやれるわけだ。
著者は、彼のサンフランシスコ湾沿岸地域とボストンの先達者達のように、仏教が、我々の最近の諸観念と交差している諸様相(ways)について発表する<機会が与えられた>ことを喜んでいる。
彼の、米国の仏教の新しいヴァージョンは、彼自身が意識して世俗化されているだけでなく、積極的に「科学化」されている。
彼は、今日の認知科学の多くで好まれているところの、頭についての「組み立て部品(mocular)」観を、仏教の教義と実践は予期し裏付けている(affirm)、と信じている。
世界を監視し諸決定を行うところの、単一の一貫したデカルト的な自身が存在するのではなく、我々は、1990年代のリベリア・・進化によって移植されたところの、戦争に明け暮れる独立した諸軍がうじゃうじゃいて、ひとまとまりの国家であると自称しつつも、相互の諸差異を折り合わせることができず、首都を獲得するための短い戦闘に勝つ軍がどんどん入れ替わっていって、統制と決定の暫時の幻想しか提供できない・・のごとき頭の下で生きているのだ。
固定された自身なるものは、経験によって刷り込まれ、嗜好によって強化されたところの、幻想である、ということを受容することを通じて、瞑想は、この諸軍の動員解除まではできなくても、この諸軍の本性を見て取り、未成年の兵士達を暫時武装解除を試みさせるところの、一種の平和維持任務に向けて、我々をパラシュート降下させる。・・・
仏教は、精神的諸実践の中で、唯一、瞑想を通じて我々の「理性(reason)」の無常性(transience)を自覚するよう我々に求めたおかげで、「理性」の事後的(post-hoc)本性を常に認識していた。」(D)
⇒「個人」なる単一の統合体の存在を疑問視し始めた現代心理学に抗して、「個人」を復権するための手段として、念的瞑想を「用いる」、といういわけであり、どこまで行っても、著者、ひいては米国の念的瞑想フェチ者達、は、個人主義の埒内から一歩も出ることができない哀れな非人間主義者達、すなわち、アンチ釈迦、である、と総括してよさそうですね。(太田)
(完。英国篇に続く)
アングロサクソンと仏教–米国篇(その28)
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