太田述正コラム#9401(2017.10.15)
<アングロサクソンと仏教–英国篇(その4)>(2018.1.28公開)
心理的、感情的、そして肉体的な苦悩は人間の実存の一環だが、此縁性と無我(selflessness)を理解し、四諦・・すなわち、苦諦(comprehend suffering)、集諦(let go of its arising)、滅諦(behold its ceasing)、道諦(cultivate the path)・・を実行することを通じてそれをコントロールすることができる。
哲学と瞑想を両方含みながらも、この径は、主として倫理的なものなのであり、その倫理は規則(rule)に羈束されたり絶対視されたりすることなく、状況対応的(situational)であって、我々が人生で遭遇する特定の人々と状況に対し、教育的で、賢明で、情け深く(compassionate)、かつ、効果的な(efficacious)、対応、をすることが強調される。
⇒著者は、釈迦の本来の教えが、まさに、私の言う、人間主義的行為を行うこと、そして、人間主義者になること、であったことを明らかにしたわけです。
私が、このことに思い至ったのは、最近のことですが、それが著者のこの指摘を知ったから思い至ったわけではないことは、読者の皆さんはご存知の通りではあるものの、著者に、その功績は譲らなければなりますまい。
(もとより、そんなことは、鎌倉仏教各派の創始者達はもちろんのこと、飛鳥時代に玉虫厨子が作られるより以前から、仏教通の日本人達にとっては常識だったのであり、だからこそ、逆に、日本人の誰も、そんなことを、わざわざ言挙げしてこなったわけですが・・。)
なお、改めて、日本の裁判が判例や論理的整合性といった「規則に羈束」されていないことの人間主義性、や、私のかねてからの主張・・日本の憲法に規範性がない、また、一律・普遍の人権概念などというものは野蛮である・・の人間主義性、に思いを馳せていただきたいものです。(太田)
瞑想は、「敬虔の感覚的豊かさが純粋な内省的歓喜(rapture)によって置き換えられるところの、持続的意識集中の諸状態の達成」に関するものではなく、単に、「この有機体において、それがこの瞬間にその環境に触れる際に一体何が生起しているか」についてのマインドフルネス(注意深さ)なのだ。
⇒このように、著者が、「瞑想」を人間主義と切り離した形で受け止めているのは、この本の玉に瑕、といったところでしょうか。
私が、少し前に(コラム#9369で)、釈迦は、「まずは雑念を払った上で、つまり、サマタ瞑想をした上で、改めて、このような意味での悟りを自らに叩き込んだ、つまり、念的瞑想をした、というだけのことではなかったのか」、という問題提起をしたことを思い出してください。(太田)
<また、>涅槃(Nirvana)<(注8)>は、この世の間であろうとあの世の間であろうと、恒久的で先験的で不変の状態、などではなく、人間の実存の諸気まぐれさの下では常には維持できないかもしれない反応性、の単なる断ち切りでしかない。
(注8)「涅槃は、「<悟>り」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。・・・
涅槃は以上のように、煩悩が煩悩として働かなくなり、煩悩の障りが涅槃の境地に転じ、智慧の障害であったものが転じて慈悲として働く。それを菩提(ぼだい[=Bodhi])という。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83
「bodhi の漢訳に”悟”という訳語はないが、日本仏教では菩提を”さとり”と意訳する<(典拠が付いていない。)。・・・(菩提を得た者が仏であり、これを目指す衆生を菩薩という。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E6%8F%90 ([]内も)
にもかかわらず、涅槃は、我々が近付きたいと願いうる最たるものなのだ。
⇒菩提に関するウィキペディアは、日本仏教・・さしずめ、というか、とりわけ、私の言う意味での鎌倉仏教・・では、涅槃と菩提が悟りというコインの表裏のようなものと解されているとしているところ、そのくだりに典拠が付けられていないわけですが、例えば、天台宗の飛不動尊(龍光山三高寺正寶院)のHPは、「菩提は、<悟>りの結果として得た智慧のことで<あるところ、>・・・仏教は菩提を得ることを目的として、その実践方法=修行を説<く宗教で>す。・・・菩薩が<悟>りの智慧を得ると仏になります。」
http://tobifudo.jp/newmon/shugyo/bodaii.html
というくだりは、まさにそのような認識が「日本の仏教」の常識であることを示しています。
重要なのは、「菩提の為<のことをするとは、>・・・利他=他の人<(を始めとする>・・・生きとし生けるもの<(以下同じ))>・・・を利する為に、との考え方から、<悟>りを得る為に・・・<他の人のためのこと>をする<ことです。>」(上掲)としていることです。
ここでの「利他」は、「慈悲」・・私の言葉では「人間主義」・・、とした方が適切であったところ、これは、「<悟>りの結果として得た智慧」は人間主義である、と言っているに等しいわけですが、このこともまた、「日本の仏教」の常識であることを示しているのではないでしょうか。
逆に言えば、だからこそ、「日本の仏教」では、「涅槃と菩提が悟りというコインの表裏のようなものと解されている」のではないでしょうか。
要するに、ここでも、著者は、「涅槃」を人間主義と切り離した形で受け止めているのであって、これもまたこの本の玉に瑕である、と言わざるをえません。(太田)
(続く)
アングロサクソンと仏教–英国篇(その4)
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