太田述正コラム#9425(2017.10.27)
<定住・農業・国家(その11)>(2018.2.9公開)
メソポタミアでのその発明から500年間、文字は、もっぱら、簿記・・社会、人数、そしてその生産<物>、を、その統治者達と神殿の役人達にとって明瞭なものにして、そこから穀物と労働力を抽出するための、表記法(notation)の体系を通じた大変な努力・・のために用いられた。
初期の粘土板(tablet)<(注19)>群は、「リスト群、リスト群、そしてリスト群」からなっていた、と著者は言うが、その記録の諸対象は、多い順に、「(諸配給と諸税としての)大麦、戦争捕虜達、男性と女性の奴隷達」、だ。
(注19)「粘土板を用いた文書作成はメソポタミアの楔形文字発生とともに始まったとされている。・・・発掘によって確認された最古の粘土板文書はウルク遺跡・・・から出土し、紀元前3300年頃のものとされているが、その内容は農作業や牧畜に関するものであり、・・・実用目的に由来しているところが特徴的である。通常は自然乾燥を施されるが、重要な文書は火で焼き固められて保存性を高めた。粘土板文化圏はメソポタミアを中心としてシリア・アナトリア・エラムにまたがる広範囲なもので、時代の下限もアケメネス朝<ペルシャ>・ヘレニズムに至っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%98%E5%9C%9F%E6%9D%BF
偉大なドイツ系ユダヤ人文化評論家のヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)<(注20)>・・彼は、ナチのコントロール下の欧州を逃れようとして自殺した・・は、「文明の文書の中で、同時に野蛮の文書でないものはない」、と言ったものだ。
(注20)1892~1940年。「ドイツの文芸批評家、哲学者、思想家、翻訳家、社会批評家。フランクフルト学派の1人に数えられる。ドイツ観念論、ロマン主義、史的唯物論、及びユダヤ教的神秘主義などの諸要素を取り入れ、主に美学と西洋マルクス主義に強い影響を与えた。・・・ベルリンの裕福なユダヤ人家庭に生まれ」、フライブルク大、ベルリン大、ミュンヘン大、ベルン大で学び、ベルン大博士。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%A4%E3%83%9F%E3%83%B3
彼は、人類が作ったことがある、あらゆる複雑で美しい物は、それを十分長く見つめれば、影であるところの、抑圧の歴史だ、と言おうとしたのだ。・・・
⇒日本文明は例外だ、と言いたいところですが、内外の非人間主義者達に対処するために人間主義的非人間主義者達(弥生人達)を擁していた限りにおいては、日本文明だって、抑圧的側面はあった、と言わざるをえないでしょうね。(太田)
歴史上の記録が示すのは、初期の都市群と国家群は、突然の内部崩壊を起こしがちだったことだ。
「約5000年・・日本とウクライナにおける、農業文化より前の定住を含めれば7000年・・にわたる、国家群<成立>前の間歇的定住において、考古学者達は、入植され、次いで放棄され、恐らく再入植されたところの、何百もの場所群を記録してきた」、と、彼は記す。
⇒日本やウクライナの非農業定住社会も含めた立論に本当になっているのかどうかよく分かりませんが、日本の、例えば、三内丸山なる「都市」は5500年から約4000年前までの約1500年存続しており、その間、この国家(都市)が放棄されたことがある、という話は聞きません。
もとより、三内丸山も最終的には放棄されたわけですが、それは、「気候の寒冷化により栽培作物の不作が続き、遂には慣れ親しんだ住処を捨てて、新天地を求めて他の土地へ移り住んで行った」もの、というのが通説のようです。
http://hanyosirin.exblog.jp/21329733/
ちなみに、「この気候の寒冷化は日本全国でおこり,縄文人の人口減少の重要な原因であった可能性が高い.
<支那>の長江周辺,西アジアのメソポタミアなど世界の文明においても,ほぼ同じ時期(4,000-4,300年前)に衰退が報告されている.このようにアジアの中緯度域でほぼ同時に文明が衰退していく原因は,アジアモンス-ンの寒冷化あるいは乾燥化などのさまざまな影響と言えるかもしれない.」
https://www.k.u-tokyo.ac.jp/news/20091224press.html
だそうです。(太田)
これらの諸出来事は、ふつう、「諸崩壊」として語られてきたが、著者は、我々に、この言葉についても究明するよう誘う。
国家群が崩壊すると、瀟洒な諸建物の建設は止み、選良達はもはや諸事を運営しなくなり、諸記録は書き残されなくなり、人々の太半はどこか他所で住むべくいなくなる。
一体これは、大部分の人々にとって、諸生活水準に関して崩壊なのだろうか。
⇒放棄(崩壊)が繰り返された国家(都市)の具体例を示してくれないとイメージが湧きません。(太田)
人間達は、著者が思い巡らすに、紀元後1600年くらいまでは、主として国家群の埒外で生きていた。
人間の政治的生活の最後の1%の5分の1を画すその頃までは、「世界の人口の多くは、国家の他と区別される特質たる、徴税者に一度も出っくわさなかったかもしれないのだ」、と。」(C)
(続く)
定住・農業・国家(その11)
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