太田述正コラム#9445(2017.11.6)
<定住・農業・国家(その17)>(2018.2.19公開)
3 終わりに代えて
このシリーズの執筆を始めた時に、狩猟採集社会→定着社会→農業社会、と移行した社会が、縄文/弥生時代の日本以外にもあったのかもしれない、という重大な問題意識が私に生じたところ、その解明ができなかったことが大いに心残りですが、最後に、かつての狩猟採集社会についてのコラム、と、現在の狩猟採集社会を取り上げている本の書評、の、それぞれのさわりを、私のコメントを付しつつご紹介して、終わりに代えたいと思います。
「・・・「希少性問題(problem of scarcity)」と時に言及されることがある、ケインズ(Keynes)が言及した経済問題は、大部分の経済理論の根本的原理だ。
それは、人々の諸欲望は無限なのに、諸ニーズと諸欠乏(wants)を満足させるために入手できる諸資源には限界がある、ということを前提にしている。
そして、ケインズに関して言えば、この経済問題は、「その最も未開な諸形態における生活が始まって」以来の「人類の最も一義的な、最も切迫する問題」に他ならなかった。
「我々は、この経済問題を解決する目的のための、我々の諸衝動と最深の諸本能の全て、を、自然による進化によって備えるに至った」、と彼は嘆いた。
「この経済問題が解決すれば、人類は、その伝統的<に抱懐してきた>目的を奪われることになろう」、とも。・・・
彼は、1930年に公刊された論考、「我々の孫達の経済的諸可能性(Economic Possibilities for our Grandchildren)」<(注33)>、の中で、・・・2030年までには、資本形成(capital accumulation)、生産性の改善、そして、技術的諸進歩が、この「経済問題」を解決するだろう、と予言した。
(注3)この論考の全文が下掲に載っている。その解題で、これは世界大恐慌の最中に書かれたものである、という「注意喚起」がなされている。↓
https://www.marxists.org/reference/subject/economics/keynes/1930/our-grandchildren.htm
<そして、そうなった暁には、>我々は、週15時間を超えて働くことなく高い生活水準を達成し維持することが可能となり、それによって、「余暇の黄金時代」が到来するだろう、と主張した。・・・
今にして思えば、ケインズの楽観主義は筋違いだった。
彼が2030年までには達成されるだろうと予言したところのものよりも、資本成長も生産性も、既に上回っているし、技術的諸進歩は、彼の最も野心的な諸期待を超越している。
にもかかわらず、我々の仕事に対する集団的嗜好は減じていない。・・・
ケインズが、週15時間労働が、現存する数えられるほどの自給自足的な狩猟採集者達のうちの若干にとって現実のものである上、多分、現代人類の歴史の多くにおいても標準(norm)であったことを知っていたとすれば、彼は、異なった見解を抱いたに違いない。
しかし、1930年においては、労働生産性や資本形成に何の関心も持たず、単純な諸技術しか持ち合わせていなかったところの、「未開な」人々が、既に、この「経済問題」を解決していた、という観念は、ばかげているように見えたことだろう。・・・
現代の<コイサン>の狩猟者達によって用いられる、高度に洗練された狩猟諸技術は、少なくとも45,000年前、そして恐らくは90,000年前、まで遡ることを示唆する証拠がある。
仮に、文明が成功したかどうかが、もっぱらどれだけ持続したかでもって判定されるとしたら、<コイサン>の先祖達の諸業績は、古代エジプト、マヤ、そして<英国の>ヴィクトリア期でさえ、単に新しいだけでしかない、ということになってしまう<ことだろう>。・・・
今や、新石器革命こそが、「経済問題」の創成期であったことを証拠が指し示すに至っている。
というのも、農業は、より生産性が高くはあったけれど、それは、急速に増大しつつあった諸人口を、潜在的に大災厄的な新しい諸般の諸リスクに晒すこととなり、それは諸般の諸革新を鼓吹こそしたけれど、それは、まずもって、そして何よりも、人的労働<の重要性>を奨助したからだ。
<というのも、>その諸原理(elements)がどれほど好ましいものであっても、農業は、およそ何らかの諸報酬が得られるまでの多大なる厳しい仕事が必要だし、仕事をしなければ、その結果は悲惨なものとなるからだ。・・・」
https://www.nytimes.com/2017/07/24/opinion/the-bushmen-who-had-the-whole-work-life-thing-figured-out.html?ref=opinion
(7月25日アクセス)
⇒生計の資を得るための労働は、希少性問題/経済問題に由来するところの必要悪である、という観念は新石器革命によって生じた勘違いに他ならない・・実際には、趣味の「労働」よりも、一般に、対自然的/対人的営み、すなわち、人間主義的営み、である度合いが遥かに高いだけに、人間にとって、生計の資を得るための労働は必要善なのだ・・が、旧約聖書にアダムとイブの楽園追放によって人間は額に汗して生計の資を得るための労働を行わなければならなくなったとあり、この勘違いを「聖化」したこと等・・「等」については、例えば、アングロサクソンの場合は理由が異なる(コラム#2764)・・を通じて、日本以外の大部分の文明では、生計の資を得るための労働を必要悪視するのが、社会通念となって現在に至っているわけです。(太田)
(続く)
定住・農業・国家(その17)
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