太田述正コラム#9453(2017.11.10)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その4)>(2018.2.23公開)
「度重なるスウェーデンによるフィンランドへの十字軍遠征は、宗教的な目的よりも東のノヴゴロドとの勢力争いを主な目的としていた。<(注10)>
(注10)「ノヴゴロド<が>・・・開かれたのかがいつかは正確には分かっていないが、『過ぎし歳月の物語』(『原初年代記』とも言う)によると854年か859年といわれている。862年スウェーデン・ヴァイキング(ヴァリャーグ)のノルマン人・ルス族(ロシアの語源)が首長リューリク(?~879年)に率いられてノヴゴロドを占領し、スラヴ人を征服してロシア最初の国家<・・ルーシ・カガン国・・>を建設した。このことから、ロシア建国の地とも目されて<いる。>・・・
コンスタンティノープルに近いキエフが政治の中心になるに従って、ノヴゴロドは商業・工業に優れた独自の自由都市、ノヴゴロド公国へと変遷していく。・・・
13世紀、モンゴル帝国のバトゥが侵攻し、キエフその他ロシア主要都市のほぼ全てが灰燼に帰す中、運良く侵攻を免れた<・・但し、モンゴルの手先となったモスクワ公国による代理奴隷狩り等の被害は受けた・・>ノヴゴロドは、その後モスクワがロシアの歴史の表舞台に登場するまでの間、ロシアの中心都市として機能することになる。
1478年にノヴゴロド公国はモスクワ大公国によって併合された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%89 前掲
「リューリクの子、イーゴリを擁した一族のオレグが882年頃、ドニエプル川流域のキエフを占領して国家を建てたのが・・・キエフ大公国<の>・・・始まり<だ。>・・・
<接壌することとなった>ビザンツ・・・帝国の首都コンスタンティノポリスとキエフの間には商人が行き来し、次第にビザンツの文化やキリスト教がルーシに流れ込むようになっていく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%A8%E3%83%95%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%9B%BD
「原初年代記は、およそ850年から1110年までのキエフ・ルーシの歴史について記された年代記・・・である。初版は1113年に編纂された。過ぎし年月の物語・・・とも。
初版はキエフ洞窟修道院の修道士年代記者ネストルの手によって完成されたと思われ、故に本書は『ネストル年代記』、『ネストル原稿』とも呼ばれる。・・・
第3版はその2年後に完成し<たが、>・・・この版の著者はビザンツ関連の事柄を大幅に訂正・更新したため、ギリシア人ではないかと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%88%9D%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E8%A8%98
「ノヴゴロド公国はヨーロッパの中でも先進的な共和制の伝統を育んできた。ノヴゴロドは公が支配する公国であるが、実態は・・・共和制であった。名目上の君主としてルーシの諸公国から公を推戴するが彼には実質的な公権が無く、・・・市民は官吏を任免することができるほか、君主である公をも選出し、また罷免する権利があった。・・・これらの決定は・・・「民会」によって行われた。民会には貴賤を問わずあらゆる階層の人々が参加した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%89%E5%85%AC%E5%9B%BD
⇒スウェーデン、と、ノヴゴロド/キエフ・ルーシ、が、少なくとも支配者に関しては同族であったこと、及び、現在のフィンランドの地の南部を両者が争っていた当時、後者が、既に歴史書を持っていたこと、共和制であったことを見ても、後者の方が前者よりも遥かに先進地域であったこと、を、我々は銘記する必要がありそうです。
後者の背景には、西ローマが消滅してしまったために「未開返り」ないし「未開維持」をしてしまっていた西・中・北欧に対し、東ローマが「健在」であったことから、東ローマとの(貿易、戦争等の)交流を通じて急速に「文明化」した東欧、という対蹠的事情があった、と考えられます。
この対蹠的事情が180度逆転する契機になったのが、モンゴルの頸であった、ということを想起すれば、このことが、ノヴゴロド/キエフ・ルーシの後継国家たるモスクワ(大)公国/ロシアにとって、モンゴルの頸そのものによるトラウマに加えて、深刻かつ根源的なトラウマになった、と、私には思えてなりません。(太田)
むろん、ノヴゴロド側もロシア正教の布教活動をフィンランド内陸に居住したハメ人に行っており、南西部のオーボにすでに司教座を置いたカトリック教会と競合関係にあった。
<このように、>宗教的目的が皆無というわけではないが、双方ともバルト海に面したフィンランド地方を手中にすることで商業的覇権を企んでいた。
・・・<しかし、>1323年にスウェーデンとノヴゴロドの間でバハキンサーリ(ネーテボリ)条約<(注11)>が締結され、南東部のカレリア地峡の国境を画定<するに至っ>た。
(注11)Treaty of Noteborg(瑞)/Oreshek(露)/Pahkinasaari(芬)。ハンザ同盟が仲介して成立。フィンランド湾からボスニア湾にかけて国境線が斜めに引かれたが、スウェーデンが数年後に、国境線がほぼ垂直に北極海(正確にはバレンツ海)にまで至る内容へと偽造した可能性が取り沙汰されており、結果的に、フィンランドの領域はこの後者のラインで確立する運びとなった。
(現在は、フィンランドの国境線はバレンツ海寸前で左に屈折していて、それより北の地とバレンツ海との間はノルウェー領になっている。)
https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_N%C3%B6teborg
この条約が締結された背景には、スウェーデン、ノヴゴロド双方の利害が一致したという事情がある。
スウェーデンは長きにわたる遠征で国力が疲弊し、恢復する期間を欲していた。
一方、ノヴゴロドは東からモンゴルの脅威を受けるようになり、西のスウェーデンとの争いを収める必要があった。」(16~19)
(続く)
石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その4)
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