太田述正コラム#9455(2017.11.11)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その5)>(2018.2.24公開)
 「スウェーデンの政治体制は王権が確立して以来、ヨーロッパ諸国とはいささか異なる道を歩んだ。
 フィンランドはその一州として、本国と同様の政治体制が布かれた。
 スウェーデンでは13世紀に貴族や聖職者が参加する王国参事会が設置され、彼らは政治に参加する権利を得る。
 15世紀(16世紀とする説もある)からは王国参事会とは別に身分制議会(聖職者、貴族、市民、農民)が設置され、農民の代表も参加」するようになった。
 農民の政治参加は中世ヨーロッパ諸国では珍しい。
 フィンランドでも1616年からヘルシンキで身分制の地方議会が制定された。
 ただ、フィンランド全体に関する件はスウェーデンの身分制議会で決定された。
 時代が下るにつれてスウェーデンでも、国王を頂点とする階級制度が作られていった。
 他のヨーロッパ諸国と同様に貴族、聖職者、商人や手工業者を含むブルジョワジー、農民という階級に分かれていったが、階級間の分離はそれほど厳格ではなかった。
 通常、階級は世襲されたが、稀に婚姻などによって階級を移動する者もいた。
 また、農奴制を布かなかった点も特徴である。」(20~21)
⇒著者が、「ヨーロッパ諸国とはいささか異なる道を歩んだ」と書きながら、どこが「いささか異な」っていたのか説明してくれていないのは残念です。
 ご存知のように、私は欧州文明(プロト欧州文明を含む)については、それほど土地勘もなく、また、勉強もしていません。
 ですから、以下申し上げることは、取りあえずの仮設の域を超えるものではない、というdisclaimerを付けさせていただきます。
 「王国参事会」というのは、スウェーデン/ノルウェー/デンマーク(以下、「スウェーデン等」という)人もゲルマン人ですから、もともと、有事の最高軍事指導者を選出する戦士集会はあったはず・・戦士になる意思がない、或いはなれない者は、当然、参加資格がない・・であるところ、その変形物であると思われます。
 しかし、スウェーデン等がプロト欧州文明化するに伴い、これは、イギリスのように、議会に発展することがないまま形骸化して行ったのでしょう。
 さて、本来のプロト欧州文明地域においては、ゲルマン系の国王・貴族が、ラテン系のブルジョワジーや農民を支配するところの、「階級間の分離<が>・・・厳格な」階級社会が成立していたところ、最初に身分制議会が設置されたのは、イベリア半島のレオンにおいてであり、1188年に、カスティーリャやポルトガルとの抗争のための戦費を確保するために、貴族、聖職者、に加えて、(商人や手工業者からなる都市)ブルジョワジーからなるコルテス(cortes)を設けられ[、これを受けて、「ポルトガル・・・が1211年、カスティーリャ・・・が1250年、アラゴン・・・が1274年、カタルーニャが13世紀末から14世紀初頭」にも設けられていきま]した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Cortes_of_Le%C3%B3n
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%B9_(%E8%BA%AB%E5%88%86%E5%88%B6%E8%AD%B0%E4%BC%9A)
 これに倣って、イベリア半島に隣接するフランスで、1302年に三部会(State General)が設けられるのですが、「15世紀以降、絶対王政が確立され始めると三部会の意義が薄れ、1614年以降は召集されな」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%83%A8%E4%BC%9A
くなってしまい、イベリア半島でも、統一スペインが成立してからですが、「17世紀になると次第に招集されなくな」ってしまいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%B9_(%E8%BA%AB%E5%88%86%E5%88%B6%E8%AD%B0%E4%BC%9A) 前掲
 西仏等に比して、スウェーデンは、15~16世紀にようやく身分制議会ができる、というくらい、プロト欧州文明諸国中の後進国だった、ということでしょう。
 他方、スウェーデンは、階級制が成立したという点ではプロト欧州文明先進国に追随しつつも、農奴制は導入しなかったというのですが、これは、ノヴゴロド公国の上述の本来的先進性の影響があったから、と想像したいところです。
 いずれにせよ、ノヴゴロド/キエフ・ルーシの後継国家たるモスクワ(大)公国/ロシアにおいて、16世紀後半に農奴制が「創設」され、それが19世紀後半まで頑強に維持されることとなったのは、これも、モンゴルの軛のトラウマに由来する・・領域/緩衝地帯拡大衝動に基づくその拡大に伴う農民の辺境への逃散を防止する必要があった・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%BE%B2%E5%A5%B4%E5%88%B6
ところ、ロシアに対する同情が一層募りそうになります。(太田)
(続く)