太田述正コラム#9459(2017.11.13)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その7)>(2018.2.26公開)
「スウェーデン統治時代、役人や貴族がスウェーデンからフィンランドに映り住むようになり、フィンランドの公用語はスウェーデン語となった。
主な公的文書はフィンランド語にも訳され、地域によっては役人や牧師はフィンランド語を用いた。
だが、1630年からオーボ<(注13)>をはじめとして都市部に設立されていったギムナジウムや、1760年代からスウェーデン本国を皮切りに徐々に設立された初等学校では、スウェーデン語が教育言語であり、軍隊でもスウェーデン語が使用された。
(注13)トゥルク(芬)=オーボ(瑞)。「フィンランド最古の町として、また旧首都として知られ、かつては主要なハンザ同盟都市であった。・・・1229年にローマ教皇がこの地に司教座をおいたことから町が築かれたといわれる。1640年にスウェーデンのクリスティーナ女王によって、オーボ王立アカデミー(ヘルシンキ大学の前身)が建設された。以来1812年にヘルシンキが首都となるまでフィンランドの中心都市として栄えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%82%AF
オーボとヘルシンキの位置関係は下掲参照。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89#/media/File:Major_railway_lines_in_Finland_ja.svg
ドイツ語も商業言語や一部の貴族間の言語として都市で、大学では主にラテン語が使用されたが、次第にスウェーデン語の論文も発表されるようになった。」(45)
「180<7>年<7>月にロシア・・・とフランス・・・<が、そして、プロイセンとフランスが、>ティルジット条約<(注14)>を結んだ。・・・
(注14)「ティルジット(現・ロシア連邦カリーニングラード州ソヴィェツク)<は、>東プロイセンのネマン川沿いの町・・・
プロイセンはエルベ川以西の領土とポーランドを失い、ザクセン王国とロシアにも領土を割譲させられた。これによりプロイセンの人口は900万人から400万人に縮小した。陸軍は4万人に制限され、さらに1億2,000万フランの賠償金を課せられ、賠償金の支払いが終わるまでのフランス軍の駐留を認めさせられた。エルベ川以西のプロイセンの旧領にはヴェストファーレン王国が置かれ、国王にはナポレオンの弟ジェローム・ボナパルトが即位した。ポーランド分割によって独立を喪失していたポーランドはワルシャワ公国として復活し、君主にはザクセン国王・・・が就いた。
ロシアは第四次対仏大同盟から離脱し、対<英国>の経済封鎖である大陸封鎖令に参加した。また、ロシアが<英国>へ宣戦することが確認された(英露戦争)。スウェーデンに対しては、大陸封鎖令に参加させるためにロシアが圧力をかけることとされ、引き換えにその後のロシアによるフィンランドの獲得(1809年)が容認された(第二次ロシア・スウェーデン戦争)。地中海では、カンポ・フォルミオの和約によってフランス領となったもののロシア海軍が占領していたイオニア諸島がフランスへ返還された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E5%92%8C%E7%B4%84
「第二次ロシア・スウェーデン戦争(・・・1808年~1809年)は、「ナポレオン戦争」<は、>・・・フィンランド戦争ともいう。フィンランドを戦場にし、スウェーデンのホルシュタイン=ゴットルプ家とロシアのホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家が開戦したこの戦争を、1788年-1790年の第一次戦争に次ぐ第二次戦争とも呼ぶ。第一次と第二次はまとめてロシア・スウェーデン戦争とも呼ばれている。
<その背景は次の通り。>ロシアとスウェーデンは元々対仏大同盟の同盟国であり、敵対国ではなかった。しかし・・・ロシア・・・<が、上掲の理由から>大陸封鎖令に参加<するに至っても、>・・・反ナポレオン政策を取るスウェーデン・・・は参加を拒否した。この結果スウェーデンは、<英国>を除くと唯一のフランス・・・の敵対国となった(<英国>の支援を得たポルトガルも封鎖令を拒み、「半島戦争」が勃発する)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89
⇒かつて、未開と文明の戦いであったものが、モンゴルの軛以降は立場が逆転して文明と未開の戦いとなったところの、スウェーデン対オヴゴロド/ロシア、の戦いが、しかし、相も変わらず、(戦いの舞台がフィンランドであったということもさることながら、)支配層は同族同士、であったことは興味深いものがあります。
考えてみると、ロシア皇室がドイツ系、つまりはゲルマン系の后を迎え続けたのは、その本来的スウェーデン性、つまりは、ゲルマン性にあったことを想起すれば、極めて自然なことだったわけですね。(太田)
<第二次ロシア・スウェーデン>戦争<(注14参照)>は1809年9月17日に・・・締結された講和条約をもって集結し、スウェーデンはフィンランドをロシアに割譲する。
この条約によって600年にわたるスウェーデン統治時代が終わりを告げたのである。
他方で、フィンランドを失ったスウェーデンはノルウェーを手に入れることになる。
1814年にナポレオン戦争の講和として締結されたキール条約<(注15)>で、デンマークからノルウェーが割譲されることが決まったからである。
(注15)「キール条約(・・・Treaty of Kiel)は、1814年1月14日、スウェーデン王国とデンマーク=ノルウェー連合王国の間で締結された国際条約。スウェーデンとノルウェーの同君連合が成立する契機となった。なお、キールはバルト海に面したドイツ北部の軍港であるが、当時はデンマーク王がキールを首府とするホルシュタイン公爵を兼務していた。
1807年からナポレオン戦争にフランス側として参戦していたデンマークは、1813年にスウェーデン軍によるユトランド半島侵攻を許し、その結果としてこの条約が結ばれることとなった。これによりデンマークはノルウェーをスウェーデンに割譲し、プロイセン王国が代償としてバルト海南岸にあるスウェーデン領ポメラニア(旧ポメラニア公国)を領有することとなった(ポンメルン州)。ただノルウェー領であったアイスランドやグリーンランド、フェロー諸島は、デンマークの領有として残された。・・・
この条約締結の知らせを受けたノルウェー副王クリスチャン・フレデリック(後のデンマーク王クリスチャン8世)が反乱を起こし・・・独立を宣言し、クリスチャン・フレデリックが国王に選出された。しかしスウェーデンはノルウェー独立を認めず、王太子カール・ヨハンが軍を率いてノルウェー軍を屈服させた(スウェーデン・ノルウェー戦争)。クリスチャン・フレデリックは王位を捨てて出国し、8月にモス条約が締結されて、ノルウェー王にはスウェーデンのカール13世が即位した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%9D%A1%E7%B4%84
ノルウェーではそれに反対する動きが起こり、独立宣言も出され、憲法まで起草された。
だが、最終的にノルウェーはスウェーデンとの同君連合下に置かれた。
それはノルウェーが独立する1905年まで続いた。」<(注16)>(50~51)
(注16)ノーベル賞が始まった1901年は、まだノルウェー(ノルウェー・ノーベル委員会が平和賞受賞者を決定)とスウェーデン(文学賞はスウェーデン・アカデミー、生理学・医学賞はカロリンスカ研究所、それ以外はスウェーデン王立科学アカデミー、が受賞者を決定)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E
の同君連合は解消されていなかった。
ちなみに、ノーベル賞的なものの創設を記した、ノーベルの「遺言は死の1年以上前の1895年11月27日にパリのスウェーデン人・ノルウェー人クラブにおいて署名されてい<る。>」(上掲)
(続く)