太田述正コラム#9461(2017.11.14)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その8)>(2018.2.27公開)

 「日本では、・・・ロシア統治時代・・・のフィンランドは「ロシアの圧政に苦しんでいた」「独立を切望していた」と見られることが多い。
 だが、ロシアがフィンランドの自治を厳しく制限したのは1890年代からであり、統治期間の3分の1ほどである。
 それまでは広範囲の自治を長く享受していた。・・・
 フィンランド総督はフィンランドで決定すべき案件をフィンランド国事委員会長官経由で皇帝に伝えるという流れができた。
 <この>長官は・・・直接皇帝と話合う権利を得るなど、ほかのロシア帝国の統治下に置かれた国とは別格の待遇を受ける。
 なお、この職はフィンランド人から選出された。・・・
 <また、>経済はロシアと分離して扱われた。・・・
 <18>60年にはフィンランド独自の通貨・・・の発行・流通が許された・・・。・・・
 ・・・<また、>関税など一部例外はあったが、フィンランド内で集めた税金は同地のみに使用することができた。・・・
 1812年、首都がオーボからフィンランド湾のヘルシンキに移転された。
 スウェーデンからの影響を弱めるためである。・・・
 クリミア戦争の敗北から、ロシア本国では・・・<アレクサンドル2世によって、>1861年の農奴解放令をはじめとする・・・近代化がすすめられ、・・・フィンランドに対しては自治をより広範囲に認める措置をとった。・・・
 1863年、<アレクサンドル2世>は・・・半世紀ぶりにフィンランドの身分制議会を招集した。
 それ以来、この身分制議会は5年に1度、1882年からは3年ごとに召集されるようになる。・・・
 いまでもヘルシンキ中心部<の>・・・広場・・・の真ん中にアレクサンドル2世の銅像が立っているが、・・・<フィンランド人達のこの>皇帝への感謝が見えるだろう。」(53~54、58、60、64~66)

⇒ナポレオン没落後のウィーン体制下で、「ポーランド<については、> ワルシャワ公国を廃止、大部分をポーランド立憲王国の領土とし、・・・ロシア皇帝がポーランド王を兼任する」こととなったが、「実質的には完全なロシアの従属国<にされ、>ロシア・・・は専制政治を行い、ポーランドの民族運動を徹底的に弾圧した」。これに対し、「ポーランド人は1830年に十一月蜂起、1848年にも民族蜂起を起こしたが、いずれも鎮圧された。この時に1万人に渡るポーランド人が亡命し・・・た。・・・<また、>アレクサンドル<2世>の自由化改革に乗じて、1863年1月ポーランド貴族(シュラフタ)は民族蜂起を起こした(一月蜂起)。だが運動は鎮圧され、[数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアのイルクーツクなどに流刑とな<った挙句、>]かえって専制政治が強化された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%AB%8B%E6%86%B2%E7%8E%8B%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89#.E7.8B.AC.E7.AB.8B.E9.81.8B.E5.8B.95.E3.81.AE.E6.99.82.E4.BB.A3 ([]内)
 とまあ、こういう次第なのですから、ロシアのフィンランド統治とポーランド統治は対照的であった、と言わざるをえません。
 私の仮説は、ノヴゴロド成立時のスウェーデン系(ゲルマン系)支配者達は、ロシア人(スラヴ人)被支配者達に人種主義的優越観を抱いており、その意識をロシアの皇帝家となったところの、(ドイツ人たる皇帝家と言っても過言ではない)ロマノフ家も引き継いでいて、人種はともかく文化的にはスウェーデン化していたフィンランド人には優しく、スラヴ人たるポーランド人には厳しく、あたった、というものです。
 なお、どちらも同君連合に留め、併合しなかった理由の一つとして、フィンランドはルター派、ポーランドはカトリックであって、ロシア正教のロシアとは、形の上で切り離しておく方が無難だ、という判断もあったと思われます。(太田)

(続く)