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名無し@安全保障
2020/02/02(日) 19:33:04 ID:QWeMzWBb
さて当該論文「徳川時代に於ける人売及人質契」について↓反証ですが自分の考えに固執する余り論証もせずまた以前自分が書いた論文の弱点すら覆い隠そうとしています。つまり貴方が示した諸条件は身売りが人身売買契約の典拠にもなりえません。むしろ奉公人が有利でさえある。
「… 中田が、ここで進化の要素として強調しているのが、消却(居消)である… 即ち、給金という要素が消却という要素に比べて重視されていないことが問題なのである。つまり、給金は「附加 条件」であって、』変体に過ぎない」のである。何故ならば、中田が、「奉公人に対して其の労働の対価としての給金を支給するが故に、本金に対して別に利子を附」すと考えるからである。これは、田畑質入の場合、質置主が小作 をして収益を得る代りに利子を支払うというのと同じ論法といえよう。しかしながら、この場合、奉公人の労働自体 は主人の収益であつて、本来、奉公人はその労働によって収益を得るものではない。したがって、そこに利子を附加する正当性は存在しない。しかも、「債権者は奉公人の労働を利用する権利を持つて居るから、身代金に利子を附す (62)ることは出来ない」という中田の如き立場に立つならば尚更である。 そこで、特別に利子を附加する場合、その正当付けの根拠となると思われるのが給金である。つまり、「給金を支 給するが故に、本金に対して別に利子を附」すのではなく、「本金に対して別に利子を附するが故に、給金を支給す る」と考えるべきなのである。
そして、この時点で、奉公人はもはや田畑の如き質物の位置関係に立つ者とはいえないであろう。むしろ、直小作における小作人、否、雇傭契約における労働者の如き立場に近付きつつある者というべ きである。 さすれば、中田は「人身の年季売が奉公契約に変形したと云ふよりも、人身の年季売が奉公契約の名称と形式とを、 冒すに至つた」(前掲注(59))というのであるが、人身の年季売が「給金」を通じて純粋な奉公契約に移行する場合も あったのではないか。つまり、中田は、消却という指標に執着するのあまり、この可能性を看過してしまったのでは ないかと考えられるのである。そして、それは、人の物視が根底にあるように思われる。
例えば、中田は、身売から最も進化した形態であるとする身代金全部居消年切奉公の典型として、飯盛奉公契約の (63)証文を示すのであるが、そこには年季の定めがあるのみで、労働条件については主人の勝手次第といった様子である。 (64)したがって、先の有給質物奉公の方が、奉公期間中、給金を得られる分、奉公人にとっては条件がよいともいえるの である。これ、まさに具体的な労働条件を顧慮せず、人をもって物視する現れといえまいか。
… したがって、外の条件を変えないで、元利全部を消却できるように年季を延ばしさえすれば、 学 借金を返済した上に、新たに給金も取得できるということになり、雇傭契約へ近付くと考えられる。つまり、消却という消極面からのみではなく、給金取得という積極面からも考察する必要があるのではないか。 中田がかかる積極面を取り上げず、消極面のみを強調するのは、人売主(人質置主)の側に立って、奉公人を物視 するからと考えられよう。しかし、中田にしてみれば、意識的に物視したわけではない。それ、即ち、身売的或いは 身代金年季「奉公契約より人法的元素を駆除して、之を純然たる年季奉公契約に同化せしめたのは、明治維新後の立 法の努力で、其結果徳川時代に於けるが如き人法的契約」「としての特種の奉公契約は、維新後に於ては名実共総て (65) 純債権法上の雇傭契約に変化してしまったのである」と述べるところに現れている。
中田は、この種の奉公契約をもって人法的契約となし、上下的であるにせよ人的関係が存在するという印象を自他に与えているのである。したがっ て、奉公人を物視しているといっても、その意識は埋没することになる。 (66) 昭和一〇年の「徳川時代に於ける人売及人質契約補考」は、この延長線上にある論文といえよう。即ち、この論文 においても、給金の例が提示されているが、それについて、中田は分析を試みてはいない。」
「… 中田が、ここで進化の要素として強調しているのが、消却(居消)である… 即ち、給金という要素が消却という要素に比べて重視されていないことが問題なのである。つまり、給金は「附加 条件」であって、』変体に過ぎない」のである。何故ならば、中田が、「奉公人に対して其の労働の対価としての給金を支給するが故に、本金に対して別に利子を附」すと考えるからである。これは、田畑質入の場合、質置主が小作 をして収益を得る代りに利子を支払うというのと同じ論法といえよう。しかしながら、この場合、奉公人の労働自体 は主人の収益であつて、本来、奉公人はその労働によって収益を得るものではない。したがって、そこに利子を附加する正当性は存在しない。しかも、「債権者は奉公人の労働を利用する権利を持つて居るから、身代金に利子を附す (62)ることは出来ない」という中田の如き立場に立つならば尚更である。 そこで、特別に利子を附加する場合、その正当付けの根拠となると思われるのが給金である。つまり、「給金を支 給するが故に、本金に対して別に利子を附」すのではなく、「本金に対して別に利子を附するが故に、給金を支給す る」と考えるべきなのである。
そして、この時点で、奉公人はもはや田畑の如き質物の位置関係に立つ者とはいえないであろう。むしろ、直小作における小作人、否、雇傭契約における労働者の如き立場に近付きつつある者というべ きである。 さすれば、中田は「人身の年季売が奉公契約に変形したと云ふよりも、人身の年季売が奉公契約の名称と形式とを、 冒すに至つた」(前掲注(59))というのであるが、人身の年季売が「給金」を通じて純粋な奉公契約に移行する場合も あったのではないか。つまり、中田は、消却という指標に執着するのあまり、この可能性を看過してしまったのでは ないかと考えられるのである。そして、それは、人の物視が根底にあるように思われる。
例えば、中田は、身売から最も進化した形態であるとする身代金全部居消年切奉公の典型として、飯盛奉公契約の (63)証文を示すのであるが、そこには年季の定めがあるのみで、労働条件については主人の勝手次第といった様子である。 (64)したがって、先の有給質物奉公の方が、奉公期間中、給金を得られる分、奉公人にとっては条件がよいともいえるの である。これ、まさに具体的な労働条件を顧慮せず、人をもって物視する現れといえまいか。
… したがって、外の条件を変えないで、元利全部を消却できるように年季を延ばしさえすれば、 学 借金を返済した上に、新たに給金も取得できるということになり、雇傭契約へ近付くと考えられる。つまり、消却という消極面からのみではなく、給金取得という積極面からも考察する必要があるのではないか。 中田がかかる積極面を取り上げず、消極面のみを強調するのは、人売主(人質置主)の側に立って、奉公人を物視 するからと考えられよう。しかし、中田にしてみれば、意識的に物視したわけではない。それ、即ち、身売的或いは 身代金年季「奉公契約より人法的元素を駆除して、之を純然たる年季奉公契約に同化せしめたのは、明治維新後の立 法の努力で、其結果徳川時代に於けるが如き人法的契約」「としての特種の奉公契約は、維新後に於ては名実共総て (65) 純債権法上の雇傭契約に変化してしまったのである」と述べるところに現れている。
中田は、この種の奉公契約をもって人法的契約となし、上下的であるにせよ人的関係が存在するという印象を自他に与えているのである。したがっ て、奉公人を物視しているといっても、その意識は埋没することになる。 (66) 昭和一〇年の「徳川時代に於ける人売及人質契約補考」は、この延長線上にある論文といえよう。即ち、この論文 においても、給金の例が提示されているが、それについて、中田は分析を試みてはいない。」