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タイトルコラム#1752(未公開)のポイント
記事No360
投稿日: 2007/05/01(Tue) 13:16
投稿者太田述正
 コラム#1752(2007.4.30)「欧州文明の成立に関する阿部謹也説(その2)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
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 このように、欧州文明はキリスト教文明である、と言われると、改めてそのアングロサクソン文明との違いを思い起こさせられます。
 私は何度も、アングロサクソンは、欧州と違って、キリスト教を含め、ローマ文明を継受しなかった、と申し上げてきているところですが、ここで、キリスト教継受の有無に焦点をあてて、疑いの晴れぬ読者の説得に努めたいと思います。

 ご登場願うのは、ベストセラーの『イギリスはおいしい』・・で余りにも有名な林望氏です。
 同氏の『イギリスは愉快だ』・・の以下の箇所は、見事にアングロサクソンのキリスト教観・・宗教観と言ってもよい・・をとらえています。

 「私の見るところ、イギリス人に宗教性が希薄であることについてのいちばん大きな要素は、イギリス人の個人主義が、宗教的全体性と相容れないという事にありはせぬかと思われる。シビル・マーシャルという人の編んだ・・箴言集の中に・・「教会に近付けば近付くほど、神からは遠ざかる」というのである。教会とか僧侶とかいうものの持っている本質的な俗物性を、このことわざは見事に言い当てている。アメリカ的な意味で敬虔なクリスチャンと看倣される生活様式の中には、じつは個人の自立や尊厳とは相反する、かなしい俗物性が隠されていることを、イギリス人のインテリジェンスは見抜いているのである。だから、イギリス人は無神論的だと考えるのは当たらない。彼らの心の中にも、れっきとした神が息づいているのだけれど、ただ、それが個人の生活なり、個人の価値観なり、理性・判断なりといったものを冒すものではないと思っているのである。いや、そういう人間としての尊厳は神といえども冒すことを許さない。というこの高い誇りがイギリス人をいちばん根本のところで支えているのだということを、私たちはよく知っておくべきである。」・・
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 <ところで、>阿部氏<が>・・「人間と人間の関係は、モノを媒介とする関係と目に見えない絆で結ばれた関係からなっている」といった大理論を展開されるのであれば、日本とドイツだけでなく、フランス等を含めた欧州全般、更にはイギリス、そして世界中の歴史を二次資料で勉強した上でその理論を展開されるべきところ、例によって阿部氏の本には典拠が示してないので、確言はできませんが、氏がそのようなアプローチをされたようには思えません。
 このこととも関連しますが、歴史家、ひいては広義の社会科学者にとっては用いる概念の厳密性が不可欠であるところ、例えば氏が、「モノを媒介とする関係・・たとえば、同じ中学を卒業した同窓生のばあい、私たちは同じ建物、教室、運動場、机や椅子を思い浮かべます・・お金持ちになるということは、お金というモノをたくさん手に入れることを意味しています。」・・と説明されているのには首をかしげざるを得ません。
 学校の同窓生の間の絆は、共通体験という目に見えない絆であって、決してモノを媒介とする絆などではないからですし、お金は少なくとも単なるモノではないからです。
 要するに阿部氏は、大理論など展開することなく、単に、欧州において12〜13世紀に、キリスト教が、それまで欧州各地に存在していたところの、様々な聖なるものと人間の間の互酬関係を駆逐し、更に、個人と個人、集団と集団の間の互酬関係すら抑圧した結果、教会にモノ(財産)が集中するメカニズムができ、不幸な時代が到来した、とおっしゃればよかったのです。
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 阿部氏の貢献は、中世の欧州に、日本の部落民よりはるかに広汎な被差別民が存在したことに光を照射し、それがキリスト教による各地の様々な聖なるものの駆逐によって生み出されたことを指摘したところにあります。
 (本当に氏のこの指摘にオリジナリティーがあるのかどうかは、知りませんが・・。)
 ただし、阿部氏は、18.19世紀にこれら被差別民が解体してゆくとしているところ、むしろ、差別の対象は、ユダヤ人とジプシー、そして有色人種に収斂して行ったと見るべきではないかと思うのです。

(完)
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<太田>
 5月19日(土)1330〜の緊急オフ会の出席予定者は6名になりました。まだ、十分余席はありますよ。