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タイトルコラム#1796に対する感想
記事No597
投稿日: 2007/06/10(Sun) 01:07
投稿者海驢
では、少し雑学を。



世界の学術的なところにいけば、朝鮮半島がアイデンティティを確立しだした最初の時代は、新羅(外国人の征服者が太祖になった可能性がある)が、初めて朝鮮半島を統一した7世紀以降。朝鮮半島生まれの人が太祖になった最初の王朝となると、王氏高麗までいかねばならないと思う。(しかも、この高麗の太祖・王建も、彼自身は朝鮮半島北部の開城の豪族の出身だが、高麗の史料によると、何代か前の先祖が白頭山の向こうからやって来た人だったらしい。)

また、歴史的に見たら、李氏朝鮮時代の前半ぐらいまでは、朝鮮半島北部というのは農耕生産量が少ない寒冷地ということもあって、人口希薄地帯であり、また様々な民族の出入りが激しい地域だった。そういう意味で曖昧な地域であり、現代、朝鮮半島北部や中国朝鮮自治区に住んでいる朝鮮族は、比較的に新しい時代になって、朝鮮半島南部から人口増加によって移住してきた人々の子孫の比率が高いと思われる。


よく、中国の元王朝なんか、蒙古人が中国を征服して出来た王朝というイメージが強いが、これと同じように新羅?・高句麗・百済も、扶余系などが朝鮮原住民を征服した王朝というふうに解釈しなければいけない。

扶余系はツングース系で、中国東北地方に数十万人にいた半農半猟の民族で、民族的には、現代の朝鮮人よりも、中国に清国を建国した満州族なんかに圧倒的に近いと思う。言語的にみても、おそらくそう。彼らは定住生活の基盤があったわけで、中国東北地方に数十万人いた扶余系の大半は、現代の中国人へ移行している。一部が南下して高句麗や百済を建国したが、これらも国家滅亡後、大半が中国東北地区へ帰還している。(一部は日本へ亡命)


高句麗は、扶余系の国家で、建国当初は中国の東北地区で、実はその歴史の大半が中国の東北地方を本拠地としていて、領土も大半が中国の東北地方だった。朝鮮半島北部に本拠地があったのは最後のほうだけ。


百済は、馬韓諸国のなかから発展してできたものだが、楽浪郡の滅亡(313年)を転機として扶余系が南下して乗っ取った征服王朝だろう?百済建国には、朝鮮半島南部に高句麗との緩衝地帯や鉄利権を確保したいヤマト王権の支援もあった。中国の史書には「百済は支配層と民衆の言語が違う」とも「住民の多くが漢人や倭人」とも、「倭人が頗る多い」とも記されている。

<ちなみに、応神天皇の時代に、日本に千字文を伝えた伝承がある王仁は、楽浪郡にいた楽浪王氏(本籍は中国山東省)という漢人系で、楽浪郡の滅亡(313年)を機に新興国の百済へ亡命し、その後、西暦400年前後くらいにヤマトへ移民したと思われる。その直後ぐらい(413年)から倭の五王の中国への朝貢が開始される。

しかし、時代的に見て千字文が誕生していない時代である。おそらく、卑弥呼(孝霊天皇の皇女?)のいた3世紀中頃以来、100年以上に渡って、中国と日本の直接的な外交関係が断絶していて、対中国外交に必要な漢文の知識が古くなっていたので、4世紀後半〜5世紀初頭の中国の最先端の漢文の知識が必要になったと思われる。その漢文の様式を、記紀を編纂した8世紀の人たちが千字文と誤解したのであろう。>


新羅に関しては、その建国過程に謎が多いが、おそらく、辰韓諸国の中で最大規模だった斯盧国が前身だと思う。が、この王朝は当初は王統が複数あって、その中には丹波出身の倭人もいたもよう。その辰韓諸国というのは、中国の史料によると、隣国の馬韓人(言語は馬韓人と辰韓人とでは異なったらしい)の王に服属していた国が何カ国かあったらしく、馬韓人の王が、多くの秦人(たぶん、4世紀後半のチベット系の前秦の時代の秦人)の亡命人を受け入れ、それを東の辰韓のほうへ押し付けて隔離したようである。そのために辰韓では、秦語が交じり合い、秦韓と言われていた。秦人は王にはなれなかったらしいが、もしかしたら、辰韓諸国の中で最大規模だった斯盧国(後の新羅?)というのは、秦人が多かったのかもしれない。ちなみに、西暦377年、新羅は辰韓諸国を統一して間もない時代に、前秦に朝貢している。新羅が、百済・伽耶と違って、西域文化の影響が強いのはそういったことなのでは?と思われる。

<日本へ移民(亡命?)してきた秦氏(秦河勝で有名)というのは、楽浪郡の漢人ではなく、新羅(斯盧?)の貴族だった可能性があるらしいが、おそらく、この辰韓へ亡命してきた秦人の末裔だったのではないのか? 実際に秦氏は、日本へ亡命してきた秦氏の祖・弓月君は、秦の始皇帝の5世の後裔というふうに主張している。ただし、時代的に世代的に見てほぼ一致するのは、前秦の初代国王の5世の後裔という説のほうで、おそらく、それの間違いだろう。その真偽は別として、前秦と関係がある可能性が高い。

http://202.121.7.7/person/donghu/2/cmap/tu33.jpg
http://jinmei.hp.infoseek.co.jp/image15.jpg

ちなみに、その前秦が栄えた同時代に、中央アジアに弓月(クンユエ)国という国があって、この国はキリスト教徒や白人系が多く居住しており、前秦とも交流を持っていたと思われる。秦氏の初代の弓月君の名前もそこから来ている可能性がある。よく、秦氏がユダヤ系だという説が出回るのも、そういうところからだと思うが、謎である。

チベット語のハタグ、ハダ、これが白い神をくるむ布地のこと。 日本では、秦(はた)氏は当初、絹織物に従事することで力を発揮していた。「機(はた)をおる」の「はた」はそこから来ている可能性が高い。東西の宗教、 文化を仲介すると言う点で日本の秦氏の役割の起源もそうした地域特性によるのではないかと思われる。

また、中国の『隋書』に出てくる、日本の中にあった「中華の人と同じ人がいる秦王国」というのは、秦氏の領国の話の可能性が高く、この秦氏というのは仏教よりも八幡思想に関係があるのかもしれない。八幡大菩薩は応神天皇と関係があるが、弓月君(秦氏の祖)が日本へ亡命した時代は応神天皇の時代である。>



以上、他にも色々あるわけだけど、中国人が言っていることは、必ずしも大間違いではない。新羅王室の出自が秦人なのかどうかは曖昧だが、新羅が前秦と関係が深く、前秦からの亡命者が多かったのは事実である。また、百済が支配者と被支配者で言語も違っており、漢人や倭人が多かったのも事実だと思われる。


むしろ、韓国人・朝鮮人の歴史観のほうが、かなりトンデモ史観だったりするわけで、韓国の国定教科書では、楽浪郡や帯方郡も、朝鮮半島に存在しなかったことになっている。よく、任那日本府の存在について韓国側が否定に必死だが、実は、韓国や北朝鮮の国定教科書では、楽浪郡や帯方郡の所在地も、中国の東北地方の遼東半島のほうに追いやってしまっている。

今年の入って、中国の先生が日本へ来て、そのことで韓国・北朝鮮を批判していた。中国の学会では、このへんの北東アジアの歴史について、韓国・北朝鮮の歴史捏造に対して批判が強いとか。その中国の先生が「4,5世紀に倭が半島南部へ勢力を伸ばしたこと(任那日本府論争)ほど、中日朝の3カ国の文献にも証拠が豊富に残っていて、なおかつ、前方後円墳の分布変遷などの考古学的史料との一致が見られる。こんなことで論争するほうがおかしい。これ(任那日本府)を否定していたら、北東アジアの歴史研究が進まない。案の定、彼ら(北朝鮮・韓国)は楽浪郡や帯方郡も朝鮮半島の外へ追いやってしまった。)」みたいなことを言っている。

「任那日本府」歪曲に見る北朝鮮史学界の荒唐無稽  延辺大学教授 全春元
http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0701/mokji.html

また、その他にも

王健群・中国学者=日本通説のようだ
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/nicchou/machimachi.html

中国外交部、「任那日本府説」も紹介
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/nicchou/minchina.html

一部の教材などでは「古代日本が韓半島(朝鮮半島)南部を支配していた」という日本学界の一部で主張されている「任那日本府説」を事実であるかのように記述するなど、韓国史記述の深刻な歪曲を見せている。例えば、上海人民出版社の『世界史講』の場合、「新羅は、半島南方で早くから長期間にわたって倭人の基盤となっていた任那地区を回復した」と記述している。
http://www.chosunonline.com/article/20060809000036

などなど。



以上、雑学はこのへんぐらいにしておきますが、現代の朝鮮半島における中国の狙いについては、太田さんとは異なった見解をもっています。

中国は、朝鮮半島をまるまる直ぐに併合しようとまでは思っていないでしょう。併合しても、現在の北朝鮮を特別行政区(自治区にはしない)くらいにしておいて、韓国に関しては、日本と中国の間の新たな緩衝地帯として置いておくと思います。ちょうど、卑弥呼の時代の楽浪郡・帯方郡の政策と同じ感じです。このへんは、また後に話をします。


ああ、それと最後に。日本の古代史研究にも問題があって、それは、ずばり「邪馬台国論争」です。幕末の国学者で皇国史観の持ち主だった本居宣長が、邪馬台国を九州へ追いやってしまったことから、全ての歯車が狂い始めた。おかげで、日本の1500年以上前の歴史は謎だらけになってしまう原因になっている。彼は皇室の人間が中国に朝貢した事実が気に入らなくて、卑弥呼を九州の女酋長ということにしてしまったんだけど、その結果、日本の記紀の年代を正しい実年代に修正していく事業が進まなくなってしまったわけです。その間に、三王朝交代説とか騎馬民族説とかトンデモ説が流布しまくります。本居宣長の行為は彼にとっては完全に裏目に出たんですよね。

でも、近年の考古学の科学的な手法の導入などで、この邪馬台国問題も徐々に真相が見えつつあります。いずれ、邪馬台国論争に終止符がうたれる時が来るかもしれません。そうなれば、その前後の数百年の歴史も明らかになってくるでしょう。

タイトルRe: コラム#1796に対する感想
記事No598
投稿日: 2007/06/10(Sun) 07:37
投稿者太田 述正
 この論理からすると、中共の次のねらいは日本史の「改竄」、ということになっても不思議ではない?
 (天皇家の祖先は朝鮮半島からの渡来人らしいので、後は、その渡来人が朝鮮半島の外にルーツを持つことを示せればいいわけです。)

タイトルRe^2: コラム#1796に対する感想
記事No600
投稿日: 2007/06/10(Sun) 09:58
投稿者海驢
>  この論理からすると、中共の次のねらいは日本史の「改竄」、ということになっても不思議ではない?
>  (天皇家の祖先は朝鮮半島からの渡来人らしいので、後は、その渡来人が朝鮮半島の外にルーツを持つことを示せればいいわけです。)


はあ? では、太田さんの面白そうな歴史観とやらを聞かせてもらおうw

で、天皇はいつ日本に来たの?w



ちなみに、中国の歴史家や考古学者は、日本で一時期流行った(太田さんは未だに信じている?)江波教授の騎馬民族説を馬鹿にしていますな。あれは、裏で北朝鮮系の人たちが動いたんだろう?と。

中国の学者は、1980年代の騎馬民族説の流布も、楽浪郡・帯方郡・任那日本府の存在の隠蔽も、檀君思想も、全部、セットになっていると読んでいるよ。

タイトルRe^3: コラム#1796に対する感想
記事No601
投稿日: 2007/06/10(Sun) 10:31
投稿者太田 述正
 「01年12月23日、<今上>天皇<が>68歳の誕生日の際、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されている」と述べ<た>」
http://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/yoo/02.html
こととか、

井沢 元彦『逆説の日本史(1)』小学館文庫
澤田洋太郎『伽耶は日本のルーツ』 神泉社 
同『天皇家と卑弥呼の系図』神泉社
同『ヤマト国家は渡来王朝』神泉社 
李鐘恒(兼川晋訳)『韓半島から来た倭国』新泉社 
等で天皇家渡来人説が主張されている
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=858286

「らしい」ことから、「天皇家の祖先は朝鮮半島からの渡来人「らしい」」と申し上げただけです。
 この話についても薀蓄を聞かせていただけるのなら、まことにありがたいですねえ。

タイトルRe^4: コラム#1796に対する感想
記事No603
投稿日: 2007/06/10(Sun) 13:47
投稿者alpha-OMEGA
はじめまして。ちょいと横から参加させていただきます。

>  「01年12月23日、<今上>天皇<が>68歳の誕生日の際、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されている」と述べ<た>」
> http://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/yoo/02.html
> こととか、

えーっと、要するに天皇家に百済系渡来人(しかも何%百済の血が残ってるかわからない)の女性が嫁入りしたと言うだけですよね?
基本的に父系を取っている現在の天皇家で、百済系の血が少し入ってることを理由に天皇渡来説を主張するのは牽強付会に過ぎやしませんか?
太田氏のご先祖様に一人だけ渡来系の親が混じってたとして、それを理由に「太田家は渡来人直系の子孫」とか言いますか?「太田家には百済系渡来人の血も混じってる」くらいならOKでしょうが。

天皇家は百済由来であるという日韓(日朝)同祖論は、日韓併合時に併合の正統性を証明する一つの理論としてでっち上げられた経緯がありました。正直そういうトンデモ説を今更新事実のようにぶちまけるのは、太田氏のスタンスとしてどうかと思うのですが?(文献残ってるだけ、日猶同祖論よりはましでしょうが。)

http://www.find.takushoku-u.ac.jp/jousei/chousen/shimojyou1.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog261.html

2番目の引用先のセリフをお借りしましょう。

>韓国での日本古代史の権威・高麗大学の金鉉球教授は、
>「日本の天皇家の百済起源説を主張する本も出てきているが、
>史料の恣意的な解釈など歴史研究者の立場から見るとき
>学問的成果として受け入れられない」と述べている。

このトンデモ説、韓国の真面目な学会では支持されていないことがこれでおわかりかと。

タイトルRe^5: コラム#1796に対する感想
記事No604
投稿日: 2007/06/10(Sun) 14:11
投稿者太田 述正
 海驢さんのおっしゃることにほんのちょっと半畳を入れただけなのに、しかも、私がいわゆる天皇家渡来人説にコミットしているわけではない・・だから「らしい」と言っている・・のに、皆さん大仰な反応をされる。
 どうやら、日本のタブーの一つに踏み込んだらしいですね。
 だけど、確か、稲作文化を携えてやってきた弥生人については、朝鮮半島からより、支那の南部からやってきたグループの方が多かったのじゃないですか。
 それに、弥生人が縄文人を支配したらしい、ということからすると、どう考えたって天皇家は、弥生人の中の有力豪族だったと考えるのが自然ですよね。
 ということは、天皇家の祖先は、支那出身か、そうでなくとも朝鮮半島出身ということになりそうな感じがしますが、おかしいですか。
 しかも、朝鮮半島出身者といっても、元はといえばより古い稲作文化を持っていた支那南部出身者であった可能性が高い。
 結局、東北工程的発想に従えば、日本の支配者の先祖は支那出身なのだから、日本史は支那史の一環である、ということになりそうですね。
 お断りしておきますが、私は東北工程的発想は歴史の改竄である、という立場ですので誤解のないようにお願いします。

タイトルRe^6: コラム#1796に対する感想
記事No605
投稿日: 2007/06/10(Sun) 16:00
投稿者海驢
>  海驢さんのおっしゃることにほんのちょっと半畳を入れただけなのに、しかも、私がいわゆる天皇家渡来人説にコミットしているわけではない・・だから「らしい」と言っている・・のに、皆さん大仰な反応をされる。
>  どうやら、日本のタブーの一つに踏み込んだらしいですね。
>  だけど、確か、稲作文化を携えてやってきた弥生人については、朝鮮半島からより、支那の南部からやってきたグループの方が多かったのじゃないですか。
>  それに、弥生人が縄文人を支配したらしい、ということからすると、どう考えたって天皇家は、弥生人の中の有力豪族だったと考えるのが自然ですよね。
>  ということは、天皇家の祖先は、支那出身か、そうでなくとも朝鮮半島出身ということになりそうな感じがしますが、おかしいですか。
>  しかも、朝鮮半島出身者といっても、元はといえばより古い稲作文化を持っていた支那南部出身者であった可能性が高い。
>  結局、東北工程的発想に従えば、日本の支配者の先祖は支那出身なのだから、日本史は支那史の一環である、ということになりそうですね。
>  お断りしておきますが、私は東北工程的発想は歴史の改竄である、という立場ですので誤解のないようにお願いします。


あの...それって別に歴史時代ではないでしょう...有史以前を出されてもね。

また、中国は、朝鮮半島をまるまる併合しようとは思ってないでしょう。彼らの歴史研究も、北東アジアの歴史が明白になる2000年くらい前のからのもです。

よく韓国のマスコミのトンデモ史観とは違って、中国の場合は一応、文献史学にそって行動している。たとえ、そこに政治的思惑があってもです。

そして、基本的に中国は、中国の固有の領域を高句麗があった北朝鮮ぐらいまでと定めており、新羅や百済のへんは、三韓といって朝鮮原住民の領域と思っていて、王朝だけが扶余という中国少数民族だったという認定です。つまり、高句麗は完全に中国の扶余系の国家で、百済・新羅などは中国の扶余系などが三韓原住民を支配した征服王朝という考えだと思います。

最近、中国の社会科学院が、中国王朝の外藩としての朝鮮・ベトナムについて、研究を開始すると発表しました。李氏朝鮮や王氏高麗は中国の外藩として有名ですが、要するに、新羅とか百済は、中国の外藩の延長線上にあり、高句麗までは完全な中国の内領域という境界線を引いたということです。

で、このへん、中国(というか、故キントウ政権)の領域についての狙いについて、上手く説明しているなと思うブログを発見しましたので紹介しておきます。

この時期だから、敢えて「東北工程」を検証する。
http://victoria.iza.ne.jp/blog/entry/54057


で、中国の日本についての野望ですが、日本本土全体云々よりも、沖縄の領有について警戒したほうが良いでしょう。中国人は、沖縄の領有を強く主張することで有名です。向こうの学者も、沖縄が日本と同じ系統の民族(その多くが九州南部からやってきた)で、言語的にも日本語の方言ということを認めてはいますが、中国がかつて琉球王国として外藩として扱っていたことを主張します。琉球王国の建造物も、中国風であって、日本の戦国時代・江戸時代のものとは大きく違うと主張されるみたいです。

ただし、中国が沖縄を領有するとなると、日本だけではなくて、アメリカまで敵にする可能性があるわけです。沖縄というのは、サンフランシスコ〜アーシャン半島〜日本列島〜沖縄〜台湾 というのは、近辺に重要な水路があり、アメリカの防衛ラインがある。 ここを中国が突破するとなると、大陸勢力の中国が、太平洋へ勢力を拡大することになる、これは日本やアメリカなどの海洋勢力の権益を侵すことになる。

しかし、この中国側の野望というのは、おもに上海閥という海洋思考の勢力が推進していた趣が強く、大陸思考の強い故キントウ政権ではどうかな?という感じです。いずれにせよ、故キントウ政権が安定すれば、中国はそんなに海洋進出に積極的にはならないと思います。


で、日本の古代史に関する雑学ですが、また後ほど。

タイトルRe^7: コラム#1796に対する感想
記事No606
投稿日: 2007/06/10(Sun) 17:11
投稿者太田 述正
>あの...それって別に歴史時代ではないでしょう...有史以前を出されてもね。

 支那で考古学的に実在が確認されている最古の王朝である殷は、BC1600年頃に成立したとされています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7
 他方、日本の弥生時代の始まりはBC1,000年頃とされています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
から、支那は十分すぎるほど歴史時代に入っていました。
 もちろん、日本はまだ歴史時代には入っていませんでしたが、今後殷の甲骨文字の解読が進んだり、長江文明や四川文明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E
の文字様の記号が解読されれば、天皇家の祖先が明らかになる、なんてこともありうるのでは?・・ありえないか。

 いずれにせよ、

>日本の古代史に関する雑学ですが、また後ほど

を期待してます。